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「敵を愛せ」 マタイによる福音書5章43~48節

「敵を愛せ」 マタイによる福音書5章43~48節

今日の聖書には、「・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というイエスさまの言葉が記されています。誰かが私たちの敵となり、憎しみを向け、傷つけたとしても、憎しみを持ち、復讐するのではなく、むしろ「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われるのです。

黒人解放運動の指導者であるキング牧師は、「われわれは人種差別を嫌悪しつつ、一方では人種差別主義者を愛すべきである。これこそが愛されるべき社会を創造する唯一の道なのである。」と言っています。また、南アフリカ共和国において、アパルトヘイトに反対して、政治活動を行ったアラン・ペイトンは、アッシジのフランチェスコの平和の祈りの中の一節「憎しみのあるところに愛を」から、「私たちの心からすべての憎しみを取り去ってください。また他者の心から憎しみを取り去る方法を教えてください。・・・私たちの社会の中で、何がそれを克服することを困難にしているんかを示してください。」という祈りの言葉を引き出しています。現在、南アフリカ共和国のアパルトヘイトは廃止されています。また、アメリカの前大統領は黒人初の大統領オバマさんでした。闘いの成果というのは証明されているように思えます。しかし、現代においても、未だに黒人差別は残存しています。完全に差別が無くなる日まで、真の闘いは続けられていくことだと思います。

「敵を愛する」ということは、自分の中で葛藤、闘いがあります。なかなかクリアすることが難しいものです。しかし、私たちはそのような時、イエスの十字架を思い起こさなければいけないと思わされます。ルカによる福音書23章24節には、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」という十字架上のイエスの言葉が記されています。イエスさまは、自分の十字架の死をもって、愛すること、特に敵を愛することを、教えられたのだと思います。自分を十字架につけた人々をも赦し、愛し抜かれたのがイエス・キリストでした。このイエスさまを思う時、私たちの心の中にある、誰かに対する憎しみは消えてなくなるのではないかと思います。そして、人を憎む前に、自分の内面を見つめ、本当にイエスさまに従う歩みをっしっているのか、との問を自分に向けなければならないと思わされます。

自分の周辺にいる「敵」、社会悪と思われる「敵」を愛することは、本当に難しいことではありますが、人の投げる憎しみ、また人との対立、そして、差別、抑圧の中にあって、真実の勝利を得る者でありたいと思います。

2017年6月25日 聖霊降臨節第4主日 平島禎子牧師

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