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「祈りによらなければ」 マルコによる福音書9章28~29節

「祈りによらなければ」 マルコによる福音書9章28~29節

わたしが10年間育った教会では、1年365日、早天祈祷会があり、何かの行事をするときには必ず準備祈祷会を持っていました。教会に泊まり込む祈りの集いもありました。しかし、しだいにわたしは祈らなくなり、祈りより行動が大事、という若者特有の考え方を持つようになりました。

しかし今55歳になって思うことは、祈りがいかに大事であるか、だれかに祈られていることが、どれだけ大きな力となるかということを思い知らされています。もともとイエスさまにおいては、祈りと行動はひとつのものだったに違いないありません。祈りつつ行動する、祈りが行動になっている、それが本来のあるべき姿なのだろうと思います。

今日の聖書のところでは、大変な難病をわずらっている人が登場します。古代の世界観では、多くの病は悪霊の仕業でした。ですから、イエスさまも弟子たちに悪霊を追い出し、病をいやす権能を授けておられたのです。しかしこの悪霊は追い出すことができなかったのです。質が悪いというか、強力な悪霊だったのだと思われます。イエスさまは、この種のものは、「祈りによらなければ」決して追い出すことができないと言われました。ここに祈りの力がよく表わされています。逆に言うと、大変な悪霊であっても、祈りによって追い出し、その病をいやすことができるということです。

私は神学部の前に、心理学部で学んでいました。出来の悪い、ひどい学生でしたが、ゼミの指導教授のたぶん最初の授業は今も忘れられません。意識と無意識の話でした。無意識は別名大衆意識とも言って、みんなとつながっていると言われました。後から考えると、100匹の猿が芋を洗って食べたら、全然つながりのない遠くにいる猿が同じように、芋を洗って食べるようになったというのも猿にも無意識、大衆意識があり、それがみんなとつながっているからこそなのだと納得できました。

祈りは、この無意識、信仰的に言えば、魂に働きかけるのだと思います。何人なのかは分かりませんが、ある一定の数に達したとき、祈りの力によって、奇跡が起きるのだと思います。教会に集う者が、心を一つにして祈ることが大切です。
いや、そのような、祈りによらなければ、教会は教会たりえないのだと思います。

神さまに祈り、そして互いのことを覚えて祈り合うとき、神の御業が私たちの上に、人間の想いを越えてなされるのだと思います。

共に祈りを熱くして生きたいと思います。

2017年7月2日 聖霊降臨節第5主日 笹井健匡牧師

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