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「つながる⇔つながらない」 ガラテヤの信徒への手紙5章1節

「つながる⇔つながらない」 ガラテヤの信徒への手紙5章1節

 3連休の真ん中の日曜日、そして台風の脅威のある日曜日に、こうして私たちは教会に集まって礼拝を捧げています。その理由は、信仰的な面が第一にあることは言うまでもありませんが、「つながる」という側面もあるように思います。同じ信仰を持つ一人ひとりが、ひとつの教会に「つながる」、神さまとつながり、そこに集う人々とつながるのです。そしてそれはとても大事な、信仰者の自由です。一人ひとりは、自由な存在として、教会で(@church)、つながるのです。
 現代は、核家族化がすすみ、さらに言えば孤独化がすすみ、都市部においてはもちろん、地方においても深刻な問題になっています。民生員の方や、福祉の方々の懸命な働きがあってもなお、足らないのが現状です。そうした中で、教会の「あつまり」は大変大きな潜在的ちからを持っているように思います。
 一方で、昨今、盛んに周辺諸国の脅威が宣伝されるようになりました。もちろん、脅威が全くないわけではありませんが、必要以上nそれを強調することは、結局は、いつか来た道、戦争への道につながっていくことになると思います。そうではなく、そんなときこそ、イザヤ書7章4節にあるように、「落ち着いて静かに」していることが大事だと思います。そして「恐れの心」を捨て、神にこそ信頼して、日々の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。
 今日の聖書の最後に、「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」とあります。パウロは、以前熱心に追い求めていた律法を、奴隷の軛と表現したのです。彼と同時代を生きていた多くの人々にとって、律法の存在はきわめて大きなものでした。そして時の権力者たち、祭司長、律法学者、長老たちは、その律法を用いて、民を支配していました。人々は、律法の奴隷の状態にあった訳です。そんな中、ダマスコ途上で、復活の主イエスと出会ったパウロは、180度方向を転換し、キリスト教を宣べ伝える者へと変えられました。自分自身の経験から、以前は、律法の奴隷だったのが、今はキリスト者の自由を得た、とパウロは言っているのです。
 第2次世界大戦下の日本でも、多くの人は奴隷の軛につながれていました。私達は主イエス・キリストによって与えられた自由を用いて、隣人とつながり、分かち合う社会をつくっていきたいと思います。奴隷の軛につながれない自由な存在として、平和で安全な社会を求め、祈る者でありたいと思います。

2017年9月17日 聖霊降臨節第16主日 笹井健匡牧師

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