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「剣を捨てる」 マタイによる福音書26章51~56節

「剣を捨てる」 マタイによる福音書26章51~56節

 今年の最初の礼拝、1月1日(日)の礼拝で、今年は大きな変化の年になると私の予感めいたお話しをしましたが、今まさにそのことが現実味を帯びてきているように思います。秘密保護法に始まり、安保法制、共謀罪と、戦争ができる国づくりが露骨に進められて来ました。最後の仕上げに残っているのは緊急事態条項です。災害と戦争被害の恐怖を煽って、簡単に成立するでしょう。もはや選挙もなく、政府に反対する人は、投獄されていくことでしょう。
 平和な時代に、戦争に反対すること、非暴力を訴えることは、容易いことです。しかし本当に非暴力や、無抵抗が必要とされるのは、戦争の時代においてです。
 私たちが信じるイエスさまが生きられた時代も、決して平和な時代ではありませんでした。イスラエルの人々はローマの植民地支配に苦しめられていました。テウダやガリラヤのユダの独立運動があったことが使徒言行録5章36・37節に記されています。イエスさまをメシアと信じ、従った多くの人々も、神の力に満ちて、イスラエルを独立させてくれる新しい王として、イエスさまを歓迎したのです。
 今日の聖書はイエスが逮捕される場面ですが、剣を抜いたのはヨハネ福音書によれば、ペトロです。ペトロは、他の弟子たちもそうですが、すべてを捨てて、イエスさまに従ってきました。しかしここでは剣を持っていました。護身のためでしょうか。イエスさまを守るためでしょうか。イエスさまをとらえに来た人々も剣や棒を持って来ました。武力、力による変革を期待した多くの人々、そしてそれを恐れたユダヤ教当局、どちらもそういう意味では同じ土俵に乗っていました。しかしイエスさまは、「剣をさやに納めなさい。」と言われました。そして、天の軍勢を呼ばないと言われたのです。これを聞いて、弟子たちは逃げ出したのだと思います。いつものように、奇跡を起こして敵をやっつけてくれると思っていたのです。
 「剣を取る者は、剣で滅びる。」この時は逃げ去った弟子たちでしたが、神に従い、剣に頼らず、最後まで、世に仕えて歩み通された主イエスを、神さまは十字架に捨て置かれず、3日目に復活させられました。そしてペンテコステを経て、弟子たちは、剣を越える、聖書の賜物、神から言葉の力を与えられ、何者をも恐れず、福音を宣べ伝える者へと変えられて行きました。もはや剣は不要となったのです。私たちも剣を捨て、聖霊に満たされ、神の言葉に生きる者となりたいと思います。

2017年10月15日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師

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