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「力を捨てよ」  詩編46篇

 先週は思いもよらぬことが起きました。水曜日の祈祷会後、唇の左側が麻痺していることに気づき、翌日には左目がおかしいことに気づきました。結果、顔面麻痺の一種のようで、食べにくく、話しにくい状態とまばたきができない左の目からが時折涙がこぼれます。今年こそはとはりきった結果がこれなのか、と意気消沈しましたが、自分の思いや力であれこれしようとし過ぎたのが悪かったのかな、と思わされました。
 11節の「力を捨てよ」というのは、人間が自分の力で勝手に動き回るのをやめよ、ということであろうと思います。戦争が起こる表向きの理由は、その国、その民族が自分の力によって、自分たちの正義を押し通そうとすることにあるのではないでしょうか。戦争が起きると、何の罪もない子どもたち、女性たち、高齢者たち、男性たちが犠牲になります。また、当初は同じ志をもって、自分の国を変えていこうと思っていた人たちも、それぞれのやり方に違いが生じ、自らを正しいと思うことによって、分裂、崩壊が起こります。また、私たちの日常の中でも、「自分の力でやらねば」という思いをもって、自分の力により頼むことによって、あれもこれもしなければならないという考えを持ち行動すると、必ず自滅します。しかし、その潰れた状態の中で、初めて、真の神の助け、神の力を見出すということで、真なる神の力を知り、神の力のみにより頼んで生きていくとき、私たちが思いもしなかった出来事が起きるのではないでしょうか。自分の力を捨て、神の力のみにより頼んで生きていく、それが信仰者の在り方であろうと思います。そして、「力を捨てる」ということは「平和な世界」を神と共に造り出すことでもあります。私たちが自分の力を捨て、神のみ力にのみより頼んでいく時、個々の人間の心の中に、自分と自分の周りの人達の中に、そして私たちの社会の中に、世界の中に真の平和が実現していくのであろうと思います。
 自分の力により頼まず、ただ神の力にのみより頼まれた方が、約2000年前にこの地上に現れ、愛の教えを私たちに示されました。その方は十字架の死をもって、真の愛とはこういうものだ、ということを示されたイエスさまです。イエスさまの死は敵をも愛する愛を私たちに示され、そして、私たち一人一人にイエスさまのように生きるようにと招いてくださいます。主イエスの許しと導きによって、私たち一人一人が、自分の力を捨て、ただ神の力により頼み、主イエスに従っていく、そのような歩みができるように、祈る者でありたいと思います。

2018年1月28日 降誕節第5主日礼拝 平島禎子牧師

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