• 記事検索

RSS

「声なき声」 ローマの信徒への手紙12章9~21節

 今日は、あの3・11から7年目の日です。当初は、被災のピアノの話をする予定でしたが、準備の途中で、今井和子さんという私の母教会の信仰の母の友人のことを、以前平川英勝兄が英語の文書?を見せてくださったことを思い出しました。しかし、わたしの英語力では、解読しようもなく、そのままにしてしまっておりました。ふと、「ああ、もしかして、日本語の原文が?」と思い、思い切って電話をしました。するとやはりもともとは日本語で書かれたそうです。今日の皆さんの週報ボックスにお入れした「失われた若い命」という文書です。右上にあるように、ニューヨーク各地で講演されたそうです。 - 中 略 -
 以前にもお話しましたが、わたしの父の「アメリカン・ドリーム」ならぬ「ジャバニーズ・ドリーム」の壮絶な人生で得た結論は「ほんまにしんどい人は、声をあげられない」というものです。小学校、中学校9年間「級長」をし、無遅刻無欠席で、中3のIQテストで近畿で1番?だったそうで、その父が、人助けが趣味みたいなところがありまして、多くの人を助けたそうですが、本当に厳しい状況に置かれると、人間は声なんか出せなくなるんや、声をあげれてるうちは、まだ大丈夫や、と「釈迦に説法」ならぬ「牧師に説教」をしてくれました。
 今も、あの被災したときから、大変厳しい状況下に置かれている人々が大勢いるのではないかと思います。特に、阪神淡路大震災で、「被災障害児・者」支援をされた「めぐみホーム」にも少しだけ関わっていたので、平島禎子牧師とともに、彼女の出身教会の福岡警固教会、今治教会、その他九州、四国の関係者に献金と祈りのお願いをし、おどろくほどたくさんの人たちから献金をいただき、祈りの言葉をかけられ、こころから慰められたこと、今でも忘れられません。
 現代は、特に福島のことが気になって仕方ありません。非常に複雑で、さらにそんな状況なのに、多くの利害関係が入り乱れ、しっちゃかめっちゃかになっているように思えます。機械があれば、また片岡謁也さん、とかに来ていただきたいですが、とにかく心を東北に向け、祈る日としたいと思います。そして、なんとか、「声なき声」を代弁してくれる人が、多く現れ、この岡山でも「声」を聴ければと願っています。
 受難節のこの時、十字架へと向かわれる主に従い、歩んで行きたいと思います。

 2018年3月11日 受難節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):