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「行きたくないところ」  ヨハネによる福音書21章18~19節 

 5日(木)、M.Eちゃんからお葉書が届きました。少し気になったので、お母さんのM.Yさんに電話をしました。するとこちらにおられる、Eちゃんからするとお父さんのお母さん、つまりおばあちゃんがもうご高齢で、厳しい状況にあるので、最後に会いに帰って来る、ということでした。日曜日の午後になるため、
教会には来れないとのこと、皆さんによろしくお伝えくださいとのことでした。-中略ー
 「教会」は、わたしたちにとって、どういうところでしょうか。もちろん、「行きたいところ」です、と答える方も多いと思います。しかし、よく言われることですが、日本人はなんでもやり過ぎるため、「クリスマス」が「苦しみます」になったり、教会が「行きたくないところ」になってしまったりします。特に、現在は高齢化がすすみ、いつまでも多くの、大変な奉仕をしなければいけない、となってしまっている教会も多くあります。   -中略ー
 今日の聖書は、イエスさまが「アーメン」を最初に言われる、重要な事柄を断言、明言されるときの言葉です。18節の「若いとき」は、はっきりしませんが、ペトロがイエスさまをほかのどの弟子よりも、だれよりも愛していたことからすると、イエスさまのところへ来てから、ペンテコステの後、聖霊に満たされた宣教活動をしていた、前半生だと考えられます。
 反対に、19節の説明から、晩年には「行きたくないところ」へ連れて行かれる、とイエスさまのところへ来てから、ペンテコステの後、聖霊に満たされた宣教活動をしていた、前半生だと考えられます。
 反対に、19節の説明から、晩年には「行きたくないところ」へ連れて行かれる、とイエスさまは言われました。直接的には、殉教を言い表されているのですが、ここには、私たち人間の多くの者が辿る、人生の下り坂が反映されているようにも思います。
 若いころ、好き放題やっていたそのつけ、言わばある種の「借金」のようなものを、高齢になればなるほど身に染みて感じさせられるのは私だけでしょうか。人は、自分の人生を振り返り、若いころ、自由奔放に生きていたときには感じなかったものを感じ、あるいは違う角度から見ることができるようになり、後悔や、懺悔や、そして悔い改めの気持ちを強くして、その晩年を生きるのかも知れません。「行きたくないところ」にこそ、人生の本当の意味があり、それを求めてすすみ続けるのが「大人」なのかも知れません。
 復活の主が、今、どこにおられるか、そしてどこから、自分を招いておられるか、そのことを思いめぐらしながら、この復活節の喜びのときを歩んで行きたいと思います。

2018年4月8日 復活節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

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