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「隣人愛」  マルコによる福音書12章28~34節

 私は大学入学すぐのイースターに洗礼を受けたのですが、サークル活動等の忙しさを理由に教会の奉仕をあまりというか、ほとんどしていませんでした。しかし4回生になると時間も出来たので、CSの奉仕をすることになりました。そのころさかんに言われていたのが「共に生きる」ということであり、そして讃美歌21-421「ウリエイウッソン となりびとはだれでしょう」がよく歌われていました。そして「自分を愛するように隣り人を愛する」(当時の聖書は口語訳)という聖句がいろんなときに用いられました。
 今年の児島教会の年間聖句に平島先生がこの「隣人を自分のように愛しなさい」を提案されたとき、少し「ドキッと」しました。自分はそれまで当たり前のように隣人愛を説き、少しはやってきた「つもり」でいたのが、ほんとにそうだっただろうか、やっぱり自分のことばっかり考えて生きてきたのではなかったのではないだろうか、と思わされました。
 今日の聖書は、エルサレムにおけるユダヤ当局との論争の最後のところです。(34節) ひとりの聡明な律法学者が、イエスの律法理解、つまり信仰の核心を問うたのです。それにたいして第1の掟として、神を全力で愛すべきことを答えられます。(申命記6:4~5)第1の掟は何か、と問われたわけですから、これで終わっていても不思議ではありません。しかし、これだけだと不十分であることをイエスは言われたかったのだと私は思います。
 レビ19:18より第2の掟を追加されるのです。第1の掟だけなら、他の律法の専門家と変わらなかったかも知れません。しかしイエスはあえて、第2の掟を追加され、このふたつこそが何よりも大事なのであることと、隣人を愛することが「献げ物」や「いけにえ」より優れている、と答えました。ルカ福音書では、さらに自分から「隣人」となって行くことこそ、「隣人愛」であることがあの「あるサマリア人のたとえ」で記されています。パウロは愛なくば「無」である、とまで言いました。
 二千年後を生きる私たちですが、あらためてこのイエスが強調された「隣人愛」について心を突き刺される思いがいたします。復活の主が、最も低きに降られた主が、私たちに向かって「隣人」を愛するように「隣人」となって行くように招いておられる、その招きに応えて歩んで行く者でありたいと思います。

2018年4月22日 復活節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

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