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「愛」 ヨハネの手紙一4章7~21節

説教題 「愛」 ヨハネの手紙一4章7~21節

 自分には信仰がある、希望がある、神さまへの愛もある、しかし、人を愛することは難しい、と思うことはないでしょうか。信仰、希望、愛は自分と神との関係で築いていくものですが、愛にはもう一つの要素があります。それは隣人、つまり他者です。愛が最も大切である(コリント一13章13節)ということは、自己中心的・自己閉鎖的信仰を戒めるための言葉であるのかもしれません。
 赦されえない罪をも赦される方として、イエスさまはこの地上に生まれ、死なれたのです。そこに愛があるのです。イエスさまによって、自らの内にある罪が赦されたことを知った者には、大きな喜びがあり、自分もまた愛する者へと変えられていくのです。(9、10節) 神の愛を受けていることを知った者たちが互いに愛し合うならば、目には見えない存在である神さまがわたしたちの内におられるということを感じることができるのです。そして「神の愛がわたしたちの内で全うされる」(11節)ことが起きるのです。
 神を愛するということはたやすいことのように思えるかもしれません。なぜなら神は目に見えず、自分に害を与えないからです。しかし、一人部屋に閉じこもり、聖書を読んで祈る、またキリスト教の本を読む、それは大事なことですが、それだけでは神を愛しているということにはなりません。自己満足のまた自己防衛の信仰です。神を愛するということは隣人を愛することです。(20節)しかし、隣人とは自分にとって好ましい人だけではありません。その中には、何となく合わない人、また自分に対して敵意を持ち、刃を向けてくる人、存在そのものが嫌だと思う人もいるわけです。そのような人を愛せるでしょうか。エーリッヒ・フロムという人は、「誰かを愛するということは、単なる感情ではない。それは、決意であり、判断であり、約束である」「愛は育てなければならない」ということを言っているそうです。愛というのは感情の赴くままの思いや行動ではなく、
愛すると決意すること、判断し、約束するものである、と言われています。そこには理性的な働きがなされるべきなのであるかもしれません。決意し、判断し、約束をもって育てていくものが「隣人愛」なのであるのかもしれません。
 この世で最も大切なものは「愛」です。私たち一人一人、神さまの愛を受け、
互いに愛し合い、そして、宗教にかかわらず、人を愛していく者でありたいと思います。そして、自分は誰からも愛されていないと思っている人に、神さまの愛が注がれていること、そして自分があなたを愛するということを伝える者でありたいと思います。

2016年7月31日 聖霊降臨節第12主日 平島禎子牧師

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