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「荒れ野」 マタイによる福音書3章1~6節

「荒れ野」 マタイによる福音書3章1~6節

人生には、さまざまな障害がつきものです。逆に言えば、障害のない人生というのは天国であり、地上での健全な人生ではないのかもしれません。人は皆、何らかの宿題を神さまから与えられて、この世に誕生しているのです。そして、その宿題を解決することができるように、必要な障害、つまり試練を、人生のところどころに神さまが置かれているのだと思います。

若い時の苦労は金を払ってでもするように、日本でも教えられています。若い時、苦しんだ人ほど、後になって立派な人間になれるように思います。作物でもあえて、苦しませて、それによっておいしいものに成長させることができるように、また獅子がその子を、谷底に落とし、這い上がって来た子だけを育てるようにしているように、人間もまた、本来は若いうちに、苦労するほうがいいのかも知れません。

大学の神学部に編入学したとき、母教会の業が忙しく、また共同作業所の後援会の事務局をさせていただいて、ほとんど学校に行かず、唯一の必修科目である神学概論まで、最初の2・3回しか出席しなかったんで、さすがにその教授は怒られました。編入して来た学生なのに、なんてことだ、と。

そんな中、一年の最初の授業だけ出れば単位が取れる教授がいました。その教授自身が、最初だけ出たら、あとは出なくてもいいと、と言っておられたのでその通りにしました。その最初の授業でとうとうと語られたテーマ、それが「荒れ野」でした。いかに「荒れ野」の経験が大事かを90分しゃべり続けられました。

今日の聖書は、バプテスマのヨハネの登場の場面です。イエスの先駆者として登場した彼は、荒れ野に登場しました。そしてそこで、悔い改めの洗礼を授けていたのです。人々は、彼の前に、自らの罪を告白しました。私自身、教会で初めて罪の告白の経験しました。聞いた人たちは、みんなでそれを受け止め、共に背負ってくれる信仰の友となります。私にとっては、教会は地上の天国でした。

しかし、10年間育てていただいた教会を出てからは、ほんとに「荒れ野」のような教会をたくさん目の当たりにして来ました。やはり人間の集まりです。人を見るな、神を見よ!とよく言われます。イエスさまの道備えをしたヨハネはそれが自らの役割であること、そして「荒れ野」の経験を、イスラエルの民に思い起こさせました。(バビロン捕囚)。

私たちもそれぞれに、荒れ野の体験をもっています。その体験から、救い主である主イエスに導かれ、救われ、宿題を果たして行く者でありたいと思います。

2017年1月8日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

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