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「苦しみの時」 マルコによる福音書14章32~42節

「苦しみの時」 マルコによる福音書14章32~42節

受難週を迎えました。長い受難節、レントの時もあと1週間を残すのみとなりました。みなさんにとって、今年のレントはどのようなときだったでしょうか。わたしにとっては、大きく左右に揺さぶられるような、3年間を総括する克己のときでした。

苦しい時の神頼み、ではありませんが、人間は悲しいとき、迷ったときも祈りを熱くしますが、もっとも祈りを熱くするのは、苦しみの時だと思います。今日の聖書はイエスさまが最も熱く祈られた、ゲッセマネの祈りの場面です。すでに3度、受難予告をしておられますし、さらにその中で、受難の死→復活を通して救いの業が完成されることもよくよくご存知です。しかしいざ、目の前にその時がせまると、それはイエスさまと言えども、ものすごい恐怖だったのではないでしょうか。

33節には「ひどく恐れ」「もだえ」られたこと、34節には「死ぬばかりに悲しい」ことが記されています。主イエスは、これ以上ない、苦しみの時を迎えられたのです。イエスさまは、「苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈」られ。「この杯をわたしから取りのけてください。」と神に祈られました。一人の全き人間として、「弱さ」をさらけ出されたのです。しかし、同時に、自分の願いではなく、神さまの御心がなるようにと祈られました。もしかしたら、イエスさまの脳裏には、これまでの宣教の日々が、走馬燈のようによみがえったかもわかりません。もっと宣教を続けたい、福音をより多くの人々に届けたい、だから神さま、他の道はないのですか、どうしてもここで、今、十字架にかからなければならないのですか、とご自身もどこかで答を分かっておられながら、それでも願わずにおれない、そういう状況を、祈って、祈って過ごされたんじゃないのかと思います。しかし神は沈黙を守られました。それが答でした。

3回も繰り返されたのち、神の意志を、その沈黙の中に悟り、すべてを受け入れられ、「立て、行こう。」と言われたのです。もしイエスさまがスーパーマンみたいに、まったく痛まず、苦しまなかったら、わたしたちにとって遠い存在だったのだと思います。しかし私たちと同じように、生の生を生き、最後の場面でももだえ、苦しまれたからこそ、わたしたちも、どんな状況でも、生きることができるのです。

苦しみの時、切に祈る私たちの傍らで、とりなしの祈りを続けて下さる十字架の主を見つめ、受難週を最後まで歩みぬきたいと思います。

2017年4月9日 棕櫚の主日礼拝 笹井健匡牧師

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