「平和を求めて」 マタイによる福音書5章9節
8月6日は、広島原爆忌です。朝の8時15分にたった一発の原子爆弾によって、広島の人たちの日常が破壊され、多くの人が命を失い、死体の山が築かれ、ものすごいやけどのたために皮膚がただれるなどの被害を受け、水を求めてさまよう人々で溢れ、町は焼け野原になってしまました。また、放射能によって、戦後数年で亡くなった方も多く、また、現在まで原爆症で苦しんでいる方々もおられます。
私は丸木俊さんの絵本、「広島のピカ」を読み、「じごくも これいじょうおそろしゅうない」、「ピカ(原爆)はひとがおとさにゃ、おちてこん」という文に印象を受けました。原爆が落とされた広島の地は地獄以上の苦しみの地であり、原爆を落とすのは人であるということを再確認することによって、人間が問われていると思わされました。そして、核爆弾のもたらす惨禍を決して忘れてはならないと思わされました。
今日の聖書には、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と記されています。「平和を実現する」ということは、何もしないではなされないことです。自分は平和主義者だと言って、何もしないで自分だけが平和に浸ることは、平和を実現する人ではありません。今日の聖句は、平和を実現する人になりなさい、というイエスさまの勧めが含まれているのではないかと思います。平和を意味するヘブライ語のシャロームという言葉は、「あらゆる種族の繁栄、すべての人が救われ、満ち足りている完全な状態」という意味があります。たとえ自分たちは戦争状態に置かれていなくても、どこかで戦争が起きている、貧困、飢餓のために苦しんでいる人がいる、病や悲しみや絶望をかかえている人がいる限り、この世界は平和であると言えないのです。ですから、私たちは、シャロームの世界を目指して行かなければならないと思わされます。
今年、戦後72年を迎えます。戦争体験者の方々の数も年々減ってきています。しかし、本やメディア等によって、戦争の悲惨さを知ることはできます。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないように、一人一人が「平和を実現する」ことに参与していくことが大切であろうと思います。大きなことはできなくてもいい、小さなことから、自分にできることから始めていけばいいと思います。本当に何もできない状況に置かれても、私たちは「祈る」ことができます。平和のために祈りを熱くすことも、平和を実現することです。私たちは、平和の神を信じる者として、神の子として、平和を求めて、それぞれの人生の歩みを、また教会の歩みをなしていく者でありたいと思います。
2017年8月6日 平和聖日 聖霊降臨節第10主日 平島禎子牧師
8月6日は、広島原爆忌です。朝の8時15分にたった一発の原子爆弾によって、広島の人たちの日常が破壊され、多くの人が命を失い、死体の山が築かれ、ものすごいやけどのたために皮膚がただれるなどの被害を受け、水を求めてさまよう人々で溢れ、町は焼け野原になってしまました。また、放射能によって、戦後数年で亡くなった方も多く、また、現在まで原爆症で苦しんでいる方々もおられます。
私は丸木俊さんの絵本、「広島のピカ」を読み、「じごくも これいじょうおそろしゅうない」、「ピカ(原爆)はひとがおとさにゃ、おちてこん」という文に印象を受けました。原爆が落とされた広島の地は地獄以上の苦しみの地であり、原爆を落とすのは人であるということを再確認することによって、人間が問われていると思わされました。そして、核爆弾のもたらす惨禍を決して忘れてはならないと思わされました。
今日の聖書には、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と記されています。「平和を実現する」ということは、何もしないではなされないことです。自分は平和主義者だと言って、何もしないで自分だけが平和に浸ることは、平和を実現する人ではありません。今日の聖句は、平和を実現する人になりなさい、というイエスさまの勧めが含まれているのではないかと思います。平和を意味するヘブライ語のシャロームという言葉は、「あらゆる種族の繁栄、すべての人が救われ、満ち足りている完全な状態」という意味があります。たとえ自分たちは戦争状態に置かれていなくても、どこかで戦争が起きている、貧困、飢餓のために苦しんでいる人がいる、病や悲しみや絶望をかかえている人がいる限り、この世界は平和であると言えないのです。ですから、私たちは、シャロームの世界を目指して行かなければならないと思わされます。
今年、戦後72年を迎えます。戦争体験者の方々の数も年々減ってきています。しかし、本やメディア等によって、戦争の悲惨さを知ることはできます。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないように、一人一人が「平和を実現する」ことに参与していくことが大切であろうと思います。大きなことはできなくてもいい、小さなことから、自分にできることから始めていけばいいと思います。本当に何もできない状況に置かれても、私たちは「祈る」ことができます。平和のために祈りを熱くすことも、平和を実現することです。私たちは、平和の神を信じる者として、神の子として、平和を求めて、それぞれの人生の歩みを、また教会の歩みをなしていく者でありたいと思います。
2017年8月6日 平和聖日 聖霊降臨節第10主日 平島禎子牧師
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