• 記事検索

RSS

説教題 「 幻 」  ヨエル書3章1~5節

 ペンテコステおめでとうございます。本来なら、教会の誕生日ですから、ハッピーバースデートゥーチャーチ、と言うのがいいかも知れません。
 今日の聖書は、12ある小預言書のひとつ、ヨエル書です。この3章は、使徒言行録2章でペトロがペンテコステの説教の冒頭で引用したところです。内容は「主の日」つまり終末の預言となっています。
 預言者ヨエルについては、ほとんど情報がありません。名前の意味は「ヨ」はヤハウェを「エル」は神を意味していますので、「ヤハウェは神」ということになります。おそらく、厳しい状況にあったイスラエルの人々に、ヤハウェこそが、神であり、そこに立ち帰るべきことを強調しています。
 先日テレビで「裁くのトビバッタ」というのを偶然見ました。それはそれはおそろしいものでした。ヨエル書1章に書かれている「いなご」の害、というのも、わたしたちの想像を絶する恐ろしいものかも知れません。ヨエルが預言した終末は、神の裁きであると同時に、最後には大いなる祝福が待っている、というものでした。ですからある意味「希望の預言」であったのだと思います。
 「預言」とともに「夢」「幻」という言葉が出てきます。これはわたしの感覚ですが、「希望」というと「信仰、希望、愛」という表現にもあるように、非常に強い印象を受けます。「夢」はそれに比べると少し弱い、はかない感じがしますが、それでも「ドリーム カム トゥルー」という言葉があるように実現する、現実のものとなる、かなえる可能性がある、まだ少しちからのある感じを受けました。しかし「幻」となると、蜃気楼のような、実際にはないもの、「あれは幻だったのか」というふうに、現実感がかなり弱くなる気がします。「幻覚」という言葉はほぼ「錯覚」という感じで、見間違い、本当のものではないというもの、という感じさえ受けます。
 今の時代の中で、わたしたち信仰者が信仰によって見る将来はまさに「幻」ではないかと思います。一見はかなく、実際困難に思えますが、しかし2000年前の信仰者たちが、聖霊を受けて「幻」を信じて信仰の歩みを前進させて行ったように、わたしたちもそれぞれ与えられている「聖霊の賜物」を生かして力を合わせて信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。「幻」を心に抱きつつ。

2018年5月20日 ペンテコステ礼拝 笹井健匡牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):