• 記事検索

RSS

「いやし」  マルコによる福音書1:29~34

 今日の聖書の個所には「いやし」について書かれています。イエスさまの最初の弟子であるペトロとアンデレの兄弟の家が舞台になっています。まず、そこから弟子たちは家族と断絶したのではない、ということがわかります。また、そのことを「人々」がイエスさまたちに一番に告げたということから、その家には家族以外の人たちも大勢いたのだろうと思います。イエスさまはすぐにペトロの姑のところへ行き、手を取って起こされました。すると熱は下がり、それだけではなく、彼女は起きだして「もてなし」をするほど元気になったのです。
 マルコによる福音書には、イエスさまが「家」に行くといった場面がたくさん出てきます。(2:15、3:20、14:3他)イエスさまが滞在した家というのは、イエスさまの新しい教えを聞き、イエスさまによって示された神の国の福音を信じるようになった人たちが、血縁の家族を超えて集う場になっていたのではないかと思わされます。今日の聖書の30節にある「人々」とはそのような人たちだったのではないでしょうか。
 今日の聖書の後半には、夕方になって大勢の人たちが押し寄せてきました。ユダヤ教社会では、日が沈むと次の日になります。日が沈む前までは、安息日でした。安息日にはいかなる仕事もしてはいけないという律法があり、治癒行為も仕事とみなされていました。それで、病の人たちはイエスさまにいやしていただくため、安息日が終わるのを待っていたのです。しかし、イエスさまは、安息日であっても苦しむ人が自分の前にいるならば、癒しの業をされる方でした。安息日には治癒行為を禁じることは、人間の良心を無視した律法だと思います。(死に関わるような急病、大病なら助けてもいい。いつでもいい病ならいけない。) たとえ律法を破ることになったとしても、自分の前で苦しんでいる人がいたらいやしたいのだ、とイエスさまは強く思われたのだろうと思います。そして、愛の心をもって、イエスさまはいやしの業をなされたのだと思います。
 私たちは病の人を見舞う時、いやしの業はできなくても、愛の心をもって、見舞うことはできます。可能なら手をやさしく握るか、肩をそっと持って言葉をかけることができます。そして、祈ることもできます。声に出せない状況なら、手を握って、または肩に手をおいて、心の中で短く祈ることもできます。
 また、自分がいやされたなら、医学的治癒であったとしても、やはり、イエスさまの力が働いたのだと信じ、感謝し、自分のできる奉仕の業をなしていく者でありたいと思います。

2018年6月10日 聖霊降臨節第4主日礼拝 平島禎子牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):