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「老いる恵み」  コリントの信徒への手紙一12章27~31節

 明日17日(日)は敬老の日です。ハッピーマンデーの関係で毎年日が変わるので、なんか変な感じ、ありがたみの薄れる感じがするのは私だけでしょうか。特に幼い頃、9月15日は故郷の岩清水八幡宮の一年で最大の祭りの日だったので、敬老の日ともあいまって、特別な感じを持っていた日でした。
 キリスト教は「老い」に関して少し弱い麺があるように思います。老齢となったパウロのいくつかの手紙を除けば、あまり「老いること」が聖書に登場しないからです。そもそもイエスさま自身が、若くしてこの世を去ってしまわれました。イエスに従う、とよく言いますが高齢の信仰者として、自らの救い主を見つめながら歩むとき、やはり難しい面があるように思えます。
 今日の聖書は、教会をキリストの体にたとえ、そこには様々な役割を担う者たちが存在することを記しています。最初の三つ「使徒」「預言者」「教師」に関してはみ言葉に関する業を行う者、そういう意味で、最も重要な存在と言えるかも知れません。その後、様々なことを行う者が列挙されますが、注意すべきは29節以下でもう一度その役割が繰り返されるのですが、なぜか「援助する者」「管理する者」に関しては、抜け落ちてしまっているという点です。
 わたしは、誕生して間もない頃の教会は、若い人々が多くの働きを担っていたと思っています。しかしこの「援助する者」「管理する者」は、おそらく人生の先輩であり、経験豊かで、目立たないけれども、教会を「下」から支えていた、高齢者が多かったのではないか、と思うのです。
 そして忘れてはいけないのは、これらは神さまからの賜物として与えられている、ということです。神さまが教会を建てられるとき、必要な存在として大切な存在として、これらの人生の経験豊かな人々を用いられたのです。つまり教会になくてはならない存在があったということです。
 現代は、合理的な考え方、コストパフォーマンス等が強調され、私たちもそれに慣らされてしまっています。しかしこの世に誕生して来た赤ちゃんがそうであるように、この世から天へ帰って行こうとしている高齢者は、実は大変貴重な存在です。なぜなら、天に、つまり神さまの近くにいる存在だからです。
 老いることは決してマイナスの事柄ではなく、神から来て、神へ帰ろうとしている、その意味で、人生においてプラスもマイナスも、神さまから多くの恵みをいただいて生きてきた証しです。教会において私たちはそのことを覚え、共にキリスト体の枝として、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2018年9月16日 聖霊降臨節第18主日 笹井健匡牧師

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