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「神の痛み」  ヨハネによる福音書11章33~37節

 長い聖霊降臨節が終わり、今日から降誕前に入ります。遠くにクリスマスを見据えながら一つ一つの歩みをすすめて行きたいと思います。クリスマスというと「喜び」の出来事ですが、しかしその土台には、神の痛みがあったということも覚えておかなければいけません。ヨハネ3:16にあるように神さまは愛するイエスさまを賜るほどこの世を愛して下さいました。しかしそれは神さまにとっては「痛み」でもあったのです。
 わたしたちは普段「神」というと創造主であり、全知全能で、何か超然とした存在を思い浮かべます。その通りなのですが、同時にイエス・キリストによって表された神は、遠くに離れておられる方ではなく、人間の悲しみ、苦しみを自らの痛みとされる方なのです。
 今日の聖書は、イエスさまがエルサレムに入城される直前の出来事です。ヨハネ福音書では、このラザロを生き返らせたことが大きく取り上げられています。11章の初めから読むとよく分かりますが、イエスさまはラザロを助けるために危険を冒してエルサレムへと来られました。
 姉のマリアが泣き、一緒にいた人々も泣いているのを見て、「憤り」「興奮して」涙を流されたのです。人々の痛みをを共有されるイエスさまの姿がリアルに描かれています。この後、イエスさまは死後四日経ち、すでに墓に葬られていたラザロを生き返らせたのです。
 現代の私たちには受け入れがたい出来事ですが、おそるべき奇跡がここに起こっています。人間の悲痛な悲しみ、うめきを、神は捨て置かず、必ず救ってくださる、というメッセージが込められているように思います。
 イエスさまはすでに死を覚悟しておられました。そしてこのことをすることによって、より危険は確実なものになることをご存知でした。それでもイエスさまは人々の痛みを捨て置かれなかったのです。
 神さまは愛するイエスさまをこの世に賜り、ご自身も痛みを経験されました。私たちが信じる神は、痛む神なのです。私たちの悲しみ苦しみを捨て置かず、痛みを覚えられる方が私たちの神さまです。
 クリスマスの出来事の根底に「神の痛み」があることを覚えながら、共ん心からの喜びをもって今年もクリスマスを迎えることができるように、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2018年10月28日 降誕前第9主日礼拝 笹井健匡牧師

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