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「信じるということ」  マルコによる福音書9章14~32節

 病気の子どもをイエスさまの弟子は癒せず、そのことで、律法学者たちと議論をし、その周りに大勢の群衆がいました。そこへ、イエスさまが3人の弟子たちとともに山から下りて来られました。イエスさまは議論をしている理由を病気の子どもの父親から聞き、「なんと信仰のない時代なのか。いつまで、あなたがたに我慢をしなければならないのか。」と嘆かれました。そして、父親に病気の子どもを連れてくるようにと言われました。父親は、「おできになるのなら、私どもを憐れんでお助けください。」と懇願しました。イエスさまは、「『できれば』というか。信じる者にはなんでもできる。」と言われました。すると父親は、「信じます。信仰のない私をお助けください。」とさけびました。父親は信仰と共に自分の不信仰を告白しています。この父親は自分の信仰が完全でないことを知り、信仰のない自分を助けて下さい、と叫びました。イエスさまは、その父親の正真正銘の姿を見て、悪霊との対決に勝利し、子どもを癒されました。
 「信じるということ」は、自分が信じていると思うだけでは、思い込みの信仰になってしまいます。自分の持っていると思っている神さまへの信仰も実は、神さまがイエスさまを通して、支え、守り、導いてくださることがなければ、本当には、自分の中に保つことはできないのです。
 子どもの癒しがなされた後、弟子たちはなぜ自分たちにはできなかったのかをイエスさまに訊きます。イエスさまは、「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と答えられました。
 「信じるということ」と「祈り」は切り離すことはできません。祈ることはたやすいように思えますが、結構骨が折れる仕事です。「信じます」と言えば強い信仰があるというわけではありません。日々、祈りの時を持ち、神さまへの感謝、自分の願いを述べるわけですが、すべてが神さまに受け入れられるわけではありません。祈りの課題は日々続けて祈っていくことが大事なのであろうと思います。
 私たち一人一人、キリスト教が浸透していない国、地方、地域にあって、また、不安な社会情勢の中にあって、諦めず神さまを信じ切るということをなしていくものでありたいと思います。

2018年11月18日 降誕前第6主日 平島禎子牧師

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