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「神の力」  マルコによる福音書10しょう23~27節

 1月17日は、阪神淡路大震災から24年の日でした。あのとき、何度か被災地に入る中で、人間が築き上げた大きな建物が、こんなにもあっけなく崩壊してしまうという現実に心を痛めました。人間の「小ささ」を思い知らされた経験でした。
 今日の聖書は、いわゆる「富める青年」の話を受けて、イエスさまが語られた言葉が中心になっています。神の前に正しく生きていた一人の人が、多くの財産をもっていたために、神の国に入れなかった、というのです。弟子たちは大変驚きました。当時の一般的な考えでは「富」は神の祝福の表れだと考えられていたからです。この人も、おそらくなすべき「施し」はしていたのだと思います。しかしイエスは、その財産をすべて売り払ってしまえ、と言われたのです。
 それでは弟子たちはどうでしょうか。イエスに招かれ、すべてを捨てて、イエスに従ったことが記されています。自分にはできない、立派なすごいことだなあと思ってしまいます。しかしイエスが言われているのは、人間の側の、「できる」「できない」ではないのだと思います。そもそも人間にはできないのです。弟子たちがすべてを捨ててイエスに従うことができたのも、そこに神の力が働いたからこそできたことなのです。
 私たちも信仰生活を歩む中で、時として、神さまそれだけはできません、というような経験をするかも知れません。しかし、その時忘れてはいけないのは、自分にはできなくても、神さまにはできる、神さまは何でもできる、ということです。この信仰が私たちの核にあるからこそ、私たちは今もこうしてクリスチャンとして歩んでいるのです。聖霊によらなければだれもイエスをキリストと告白することができない、というのも同じです。表面的には、自分で、選び取り、決心し、信仰者になったように見えますが、その実、神さまの方からみ手を伸ばしてくださり、信仰を与えてくださったのだということを覚えておかなくてはいけません。たとえ、それがどんなに小さく、地味な歩みであったとしても、神さまが備えてくださった道を私たちは一人ひとり懸命に歩むのです。
 大自然の災害や、人災や、病や、その他多くの艱難に遭うこともありますが、しかし私たち人間の力ではどうすることもできない、そんなときこそ、その場を切り開いて下さる、救いの業を起こして下さる神の力に頼り、その神の力を信じて、その時を待ちつつ、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年1月20日 降誕節第4主日 笹井健匡牧師

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