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「復活の声」 ヨハネによる福音書20章11~18節

 イースターおめでとうございます!今年は4月21日と大変遅いイースターでしたので、レント(受難節)が長く感じられたように思います。やっと今日、大きな喜びの日、イースターを迎えることができました。
 今年はヨハネの福音書の最初の復活の場面から復活について考えてみたいと思います。ヨハネは20章のはじめに、まず墓がからっぽ、つまりイエスの遺体、亡骸がなくなっていることを記します。ワンクッションおいているのです。8節最後の「信じた」はもちろん復活ではなく、イエスの遺体がないことを信じた、ということです。理由は定かではありませんでした。ペトロともう一人の弟子は家に帰りますが、マグダラのマリアだけは墓に残り、そこに主イエスが復活の姿を現されたのです。どこか「エマオ途上」と似ているところがあります。それは最初イエスが来られ、話しかけられてもイエスだとは気づかない、という点です。
 イエスが「マリア」と名前を呼ばれた時、マリアはその人がイエスだと気づくのです。復活の姿というものについて、いろいろと考えさせられます。
 使徒信条で「からだのよみがえりを信ず」と告白していますが、実際どのような姿になるのかはっきりしません。イエスさまは「天使のようになる」とも言われています。ある言い伝えでは、そのひとが最も輝いていたとき、若く生命力にあふれていたときの姿に似た天使のような姿になる、というものがあるそうです。もしかしたら復活の主イエスもそうだったのかも知れません。もちろんこの後のトマスとのやりとりにあるように、手やわき腹に傷跡はあったのかも知れませんが、それでも十字架上で、ボロボロの姿になられたイエスさまの姿とは違う、元気な若々しい姿だったのではないか、と私は思っています。だからこそ、園丁と間違えたのだと思います。
 イエスさまはアラム語を話しておられました。マグダラのマリアはヘブライ語で「ラボニ」と答えています。おそらくふだんからそう呼び合っていたのだと思います。イエスさまから自分の名前を呼ばれたとき、その音感というか声から伝わる気持ちから、マリアはイエスさまだと分かり、いつものように反射的に「ラボニ」と答えた、つまりその人が復活したイエスさまだと分かった、ということだと思います。
 復活節のこの時、私たちもそれぞれイエスさまから名前を呼ばれ、そして復活の主に「イエスさま」「主よ」と呼びながら、心からの喜びを胸に、歩んで行きたいと思います。

2019年4月21日 イースター(復活節第1主日)礼拝  笹井健匡牧師

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