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「少年ダビデ」  サムエル記上16章10~13節

 私自身もそうでしたが、子どもたちはいわゆる「ヒーローもの」が好きなように思います。ですから、教会学校では、いろいろある教材の中で、少年ダビデがペリシテ人の戦士ゴリアテ(新共同訳ではゴリアト)を倒す、17章の物語が人気があったように思います。
 今日の聖書はそのダビデが預言者サムエルから油を注がれる、つまり、サウルに代わる新しいイスラエルの王として選ばれる場面です。最初父エッサイは、8人の子どもの内、7人を連れて会食に行きます。そして一番上のエリアブを見たときサムエルは彼こそ新しいイスラエルの王になる者だと思います。しかし神さまは、外見ではなく、内面を見る、と言って彼を退けられ、その後続く6人も退けられました。この時、サムエルは疑問を持ったかも知れません。エッサイが連れて来た子どもの中に、神さまが選ばれた者が存在しなかったからです。それで他に息子はいないのか、とサムエルは聞きました。エッサイはおそらくこの子はまだ幼く、会食に出なくてもいい、だから羊の番をさせておこう、と思っていたに違いありません。しかし、サムエルは、「その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」と強い言葉を発しました。サムエルは、神さまが必ずエッサイの子どもの中から、新しい王になる者を見出されたことを固く信じていたのだと思います。
 私たちは、自分のそれまでの経験や常識で物事を判断することが多いのですが、時に、神さまのやり方は人間のそれとは違う方法でなされることがあるということをこの聖書の個所は教えてくれているように思います。サムエルが7人であきらめていたら、ダビデの出番はありませんでした。最後まで神さまを信頼し、追及したからこそ、ダビデは見出され、そして神の言葉が成就したのです。
 またもうひとつ考えさせられるのは、最初の王サウルのことで失意を経験したサムエルは、もう一度、神を信じその言葉に従い、そしてついに次の王となるべき存在を見出したということです。しかもその者が「少年」であったにも関わらず、サムエルは神さまの言う通り、油を注ぎました。自分の固定観念を越えて神の業を信じる信仰者の姿がここにあるように思います。
 「少年ダビデ」はこの後、いろいろ大変なことも経験しますが、サムエルと同じように、最後まで神さまを信じ、従って歩みました。私たちも同じように、自分の勝手な思い込みを捨て、神さまを信じ、歩んで行く者でありたいと思います。

2019年5月5日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

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