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「母への思い」  ヨハネによる福音書19章25~27

 今日は母の日です。人それぞれですが、そしてまた中には「母」という存在を知らない人もいます。しかし大きく考えてみれば、私たちは何らかの母なる存在によって守られて、はぐくまれて生きているように感じます。地球も、宇宙も、母なる存在ということができるかも知れません。
 私自身は20代前半くらいまで実家にいましたので、結構母との結びつきは強かったように思います。しかしその後、1人暮らしをし、遠方に住むようになり、結婚したことや、また教会の中に、母のような存在の方々がおられたので、少しずつ距離感が出来て行ったように思います。
 イエスの場合はどうだったでしょうか。詳細は分かりませんが、ルカ3:23の記述を信頼するなら、もしかしたら30歳くらいまで母マリアと一緒に暮らしていたかも知れません。そうだとするとかなり深い関係だったと言えると思います。
 ヨハネによる福音書では、今日の聖書でもそうですが、少し冷たい言い方を、イエスさまがされているように思います。2章のカナの婚礼のところでも同じです。しかし私は、これは宣教に出られてからの、イエスさまの信仰的決意から、強い使命感から来ているのではないかと思います。一緒に生活していた時は、やはりもっと暖かい呼びかけの言葉を用いておられたのではないかと思います。
 十字架上という、これ以上ない厳しい苦しい場面で、イエスさまは母マリアのことを思われ、愛する弟子に託されたのだと思います。コリント一9:5でのパウロのことばから類推すると、すでに弟たちも結婚してそれぞれの家庭を築いていたのではないかと思われます。だからこそイエスさまは自分のかわりになってくれる存在を母に与えられたのです。イエスさまの母への思いがこの聖書の場面にはよく表れているように思います。
 私たち信仰者は、今日の母の日を、自分にとっての母なる存在に心を向ける日として覚えたいと思います。もちろん実際の母に対してもですが、他にもいつも自分を見守ってくれている存在、また大自然や、究極的には母なる存在を与えてくださった神さまに感謝する日としたいと思います。そしてそこからまた新たな力をいただいて、新しく歩み出して行く者でありたいと思います。

2019年5月12日 復活節第4主日礼拝 笹井健匡牧

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