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「祈り合う教会」  ヤコブの手紙5章13~16節

 私の母教会では、夕礼拝が行なわれていました。以前もお話ししましたが、そこでは信徒の証が行なわれていました。もちろん、日常に経験した小さな信仰の出来事も話されましたが、ときどきいわゆる「罪の告白」がなされました。そのおかげで私自身も中学時代から苦しんでいた自らの罪を告白することができました。そして教会学校の礼拝でも話すことができるようになりました。教会は今日の聖書にあるとおり、罪を告白し合い、互いのために祈り合うところでした。
 しかし、それはなかなか難しいことであることを、後に知ることになります。全国の教会は同じようなところだと思っておりましたが、それは私の無知でした。なかなかそのように教会形成をすることは容易ではないことを、今牧会者となって特に感じています。時代もあるのかも知れません。しかし少しでもそういう教会へと成長して行きたい、いや成長させていただきたいと願います。
 今日の聖書では、ここまで「富める者と貧しい者」、「信仰と行い」について多く書いて来た著者が、「祈り」について繰り返し奨めています。特に今回私が示されたのは、「正しい人の祈り」についてです。今まで私は、この「正しい人」についてどこか他人事でした。自分は全然正しくないので、だれか他の信仰者のことを思い浮かべていました。しかしそうではなく、ここで言われているのは、「自らの罪を告白した人」のことを正しい人と言っているのではないだろうかと思わせられました。よくよく考えてみれば、神の前に正しい人など、もともといないのです。問題は、罪を犯したときにそれを告白することができるかどうかだと思います。そして罪を告白したなら、神の赦しと、恵みにより、正しい人としてくださるのです。それゆえ罪を告白した人の祈り合いは、正しい人の祈り合いとなるのです。そしてそれは大きな力があり、効果をもたらすのです。
 現代を生きる私たちは、戦後の日本の歩みが大きく変化したことを体験しているように思います。中でも私自身が思うことは、こんなに自己宣伝をする「国民性」がほんとにわたしたちに似合っているのだろうか、という疑問です。どこか虚勢をはっているように思えてなりません。
 信仰者として、本当の意味の謙虚さを身に着けたいと思います。それはおそらく罪を告白し合い、互いに祈り合うことによって実現するのだと思います。困難なこと、不安なことの多いこの時代だからこそ、祈り合う教会として成長させられて行くように神さまに祈りたいと思います。

2019年5月19日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

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