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「自分詩」   フィリピの信徒への手紙3章12~16節

 今日は私のもう一つの誕生日です。(笑)
 午後3時からお隣の琴浦教会で牧師就任式が行なわれます。今まで何十回と出席して来ましたが、そのたびにいろいろな示唆を与えられて来ました。一番はやはり「初心に帰る」ということです。洗礼が第2の誕生だとするならば、就任式は、さしずめ「第3の誕生」みたいなものだと思っています。もう一度、自分の人生を、信仰生活を初めから振り返ることができるのです。
 私の人生を語ると日が暮れてしまいますので、今日は一冊の、ある本に書かれている言葉で代えさせていただきたいと思います。「それでもこの世は悪くなかった」です。いろいろありましたが、「それでも」今こうして皆さんとここに生きておられることをほんとうに心から神さまに感謝しています。
 今日の聖書は非常に有名な箇所で、おまけに最近すでにメッセージした箇所です。しかしどうしてももう一度取りあげてみたいという思いを与えられました。パウロは、迫害者から伝道者へと、180度転換する人生を歩みました。そしてこの手紙を書くころには、もう有名な「使徒」?になっていました。それでもまだ「既に得た」「既に捕えた」とは思っていない、と言っているのです。そしてこれからもひたすら走って行きたいと言っています。
 今回私は、「別の考え」という言葉が心に響きました。パウロは自分の主張をめいっぱいしながらも、しかしそれを絶対視せず、皆さんに他の考えがあるならそれもおそらく神のみ旨だと、他者の信念、価値観を尊重しているのです。これは逆の面からみるならば、自分の生き方に、信仰の歩みに確信があるからこその言葉だということができるかも知れません。自分に自信(決して過信ではなく)を持っているからこそ、他者の生き方、在り方を尊重できるのかも知れません。
 16節の結論で言っていることも、つまりは、神さまから示された自分の信仰の道を、人の目を気にすることなく、ただ神だけを見上げて、そして自分にしか生きれない、信仰者のあゆみを歩んでほしいと言っているように思います。
 私はすべての人は「詩人」だと思っています。一人ひとりが神さまから招かれ、イエスさまに捕えられた者として、それぞれの人生の詩を歌いながら、自分にしか生きれない「自分史」を生き、そして自分にしか歌えない「自分詩」を歌って信仰の歩みを前にすすめて行く者でありたいと思います。
 
2019年6月23日 聖霊降臨節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

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