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「信仰とは・・・」   ヘブライ人への手紙11捷1~3節

 昨年の明日、15日10時21分に、故三宅八重子姉は召天されました。日曜日の礼拝が始まる直前の時間でした。八重子姉の思い出はいろいろありますが、正直、訪問時間が長くしんどいこともありましたが、それでも八重子姉の言葉からは信仰があふれんばかりに湧き出ていました。召天日の7月15日、というのも私にとっても忘れられない日となりました。…。
 17歳の私が、自分なりにたどり着いた「境地」は、「真理」には人間の力では到達できない、というものでした。「向こう」からやってくる、人間はそれを待つのみ、かすかに心で感じることができる、というものでした。実際友人が誘ってくれたので教会に行くことができ、今日につながっています。
 はじめのころは純粋な信仰で、何の疑問もなく、幸せな日々が続きました。しかし献身することになり、神学部で学び、その後、はじめて地方の大教会で過ごした私は、信仰とは?と考え、思う日が増えたように思います。
 それでもそんな私の信仰を支えてくれたのは、少数の信仰熱き人々でした。神さまは信仰の弱い私を支えるため、多くの信仰の友を与えて下さいました。だいたい牧師というのは一番信仰が弱く、それゆえ、この世では信仰者として生きられないからこそ、神さまが教会で働くようにしてくださる存在だと思います。
 見えないものを信じる、というのは口で言うほど簡単ではありません。だからこそ、目に見える存在として信仰の友が与えられているのだと思います。実際には逆説的ですが、見える姉妹兄弟を愛して行くことにより、神を愛することができるようになり、そして神を信じることが、つまり目に見えない存在を信じることができるようになるのだと私は思います。
 私にとっては、最晩年ではありましたが、三宅八重子姉にお会いできたことは幸せなことでした。人生の荒波を、信仰をもって乗り越えられて来た、その鍛え上げられた信仰はまさに「筋肉は裏切らない」ように「信仰は裏切らない」ということを体現されていました。そして私にとって、信仰とは、目の前にいる人を愛して行くことであることをあらためて姉妹から教えられたように思います。
 天国で再会したときに、その後いろんな歩みをしましたが、特に三宅八重子姉の召天から1年、いろいろなことがありましたが、その都度、三宅さんの信仰を想い起し、何とか乗り越えて行くことができました。ありがとうございました。と心から喜んで報告したいと思います。

2019年7月14日 聖霊降臨節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

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