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「選択」   マタイによる福音書6捷24節

 人生は選択の連続です。何年か前「選タクシー」というドラマが放送されていました。過去に戻って大事な選択をやり直すことができるタクシーの話だったように思います。現実は過去を変えることはできません。今日は参議院選挙の投票日ですが、選挙、というのもひとつの選択です。
 選択にはいろいろありますが、それぞれの人にとって、究極の選択とも言える選択があると思います。
 今日の聖書は、イエスさまのいわゆる「山上の説教」の、頂点に位置する聖句だと思います。救いを求めてイエスさまのところへとやって来た多くの人々に対してイエスさまが言われた究極の選択、それは「神と富」でした。
 最近日本では、格差社会という言葉を越えて、ついに階級社会という言葉が言われるようになりました。ひとりの社会学者が面白いことを言っています。大都会に林立するタワーマンション、あれは中流階級から落ちこぼれたくない、中流にしがみついている人々の心の象徴だと。屈折した、現代版バベルの塔かも知れません。
 イエスさまは讃美歌280番にあるとおり、「貧しきうれい、生くるなやみ」をつぶさになめて生きて来られました。ですから「富」の大切さ、力をいやというほど体験してこられた方です。しかし「富」は所詮手段でしかありません。決して目的にしてはいけないのです。ましてや「仕える」つまりすべてをささげるようになっては、最も大切な命を失ってしまいます。(ルカ12:13~21)
 九州の宮田教会時代、ある牧師を特伝に呼びました。そのメッセージは「愛か金か」という内容でした。結論としてその牧師は両方大事だと言いました。そしてそれから先はお一人お一人考えて下さいと。私は若かったせいもあり、当然愛やろ、と批判的に聞きましたが、しかしその方の生い立ち、まさに貧しさをつぶさになめながら生きて来られた経験からの言葉に、人生が違うと、聖書のとらえ方もこうまでかわるものだと考えさせられたものです。
キリスト教では、神を第1とし、その神を愛することをあたり前のように説きますが、それは口で言うほど、簡単で、単純なものではありません。しかしそれでもイエスさまは「富」ではなく「神」に仕えるように、貧しい人々に教えられたのです。究極の選択として、神を選び取り、その神に仕える者として、どう生きるのか、何を選択していくのか、を考えて行く者でありたいと思います。

2019年7月21日 聖霊降臨節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

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