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「他人の利益」   コリントの信徒への手紙一10章23~24節

 若い日の私にとって最も重要だったのは、「真理とは何か」ということでした。そしてそれは当然のことながら、「自分にとって」の真理ということでした。ですから、教会に行き始めてからの私にとって、教会とは、自分の、自分による、自分のための教会でした。そこで自分が満足を得られることをのみ考えていたのだと思います。しかし初めにすることになったのは、ボランティアでした。人生で初めての経験でした。見よう見まねに、今から思うと恥ずかしい限りですが、他者のために何かするとはこういうことなのだと教えられたように思います。
 背景には、礼拝におけるメッセージがありました。よく聞いたのは、自分中心の生き方から、神中心の生き方へと変えられる、という話でした。自分のことばかり考えていた私にとってはまさにコペルニクス的転換でした。自分が中心にいて、その周りを太陽はじめ多くのものが回っている、と思っていたのですが、神が中心にいて、その周りを自分が、回っていると知らされたのです。
 私たちはふだん自分のことを考え、自分のペースで日常を歩んでいます。なかなか他者のことを考えることはできません。まして他人の利益なんて、まったく考えない存在です。どうしたら自分にとっていい結果になるか、自分の利益になるか、そんなことばかりで日を過ごしています。
 神を中心として生きることによって、他者を中心として生きることができるようになる、他人の利益を考えて生きることができるようになる、ということを教会でたたき込まれたように思います。
 23節には「すべてのことが許されている。」と2回繰り返されています。私たちはイエスさまに救われた者として、真の自由を与えられました。しかしその自由をどう用いるかで、その後の自分の歩みは大きく変わって行きます。救われた私たちは、救ってくださった方が喜ばれる生き方をしたいものです。
 日々の喧騒から離れて一人静かに祈るとき、神さまの小さな声を聞くことができるかも知れません。また聖書を読んで、今日の個所もまさにそうですが、いつの間にか自分中心になっていた在り方を軌道修正され、もう一度、神さまを中心とし直す、そこから何か示されるかも知れません。
 いずれにしても、すべてを許された者として、自らすすんで他人の利益を追い求める生き方を、まず神さまによって同じ教会に集められた信仰の友に対して、そこから他の教会、そして様々な苦しみの中にある人々に対して、その利益を追い求めて行く生き方ができるように、成長させられて行きたいと思います。

2019年7月28日 聖霊降臨節第8主日礼拝 笹井健匡牧師

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