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「愛敵」   マタイによる福音書5章43~48節

 先週の平和聖日でお話しましたが、イエスさまの福音の中心の一つには、5章9節の「平和を実現する」というメッセージが含まれているように思います。そして山上の説教でいくつかその方法に触れておられます。今日の聖書の直前の「復讐してはならない」もその一つです。そして今日の聖書ではさらにすすめて「敵を愛しなさい」と言われるのです。
 今日は43節、44節に注目したいと思います。『』に入っていますと、旧約の聖句の引用のように錯覚してしまいますが、『隣人を愛し、敵を憎め』という聖句は存在しません。おそらく人々の言い伝えの中に、そのようなものが存在していたのだろうと思われます。旧約聖書(聖句)では、むしろ敵にも親切にしなさいと教えらえています。
 しかし新しいのは、敵を愛し、迫害者のために祈れ、という教えです。古代社会においては「敵」「味方」がある意味はっきりしていました。「隣人」というのは同じイスラエルの民、つまり同胞を指す言葉です。しかし現代社会においてはだれが味方でだれが敵かということが大きく揺らいでいるように思います。
 「思春期」という言葉があります。大人になって若い日々のことを振り返ると甘酸っぱい思いや、ほろ苦い思いとともに「ああ、あのころは思春期だったなあ」と振り返ったりします。私のイメージとしては大きな木にたくさんの「さなぎ」がぶらさがっている感じです。自分の殻に閉じこもり、自分らしさを磨いている時期と言えるのかも知れません。しかし多くの場合は、同じような経験をしている仲間が、隣にいるのです。そして時にはその存在が大きな励ましになります。しかし、他から完全に孤立し、自分だけが、苦い、苦しい思いをしていると思ってしまう「さなぎ」があります。最近の無差別殺人等に見られるのは、自分以外は全員「敵」だという感覚です。そこには「隣人」「味方」「仲間」という存在が感じられません。
 敵を愛するには、まず隣人を愛することが必要です。そしてその愛する隣人が多くなればなるほど、敵を愛することもできやすくなるのかも知れません。
 イエスさまも教えられたように、自分を愛し、隣人を愛し、そして敵を愛して行くのが私たちの人生、特に信仰者としての人生かも知れません。その意味で、この「愛敵」という言葉は特別な意味を持っているのかも知れません。憎しみの連鎖を断ち切り、愛することこそ、愛し合うことこそ、最終的に平和を実現し、諸問題を解決する道であることを信じて歩んで行きたいと思います。

2019年8月11日 聖霊降臨節第10主日礼拝 笹井健匡牧師

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