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「偽善」   マタイによる福音書6捷1~4節 

説教題 「 偽 善 」      聖書:マタイによる福音書6章1~4節

 信仰に基づいて善行をしていくときには、ひとつ大きな注意点があります。それは、「偽善」です。
 私たちは、幼い時から、親、大人にほめられようとして、「善い事」をします。周囲の大人たちも、「よしよし〇〇ちゃんはいい子だね」と褒めてくれます。子どもの頃はそれでいいのかも知れません。しかし大人になると「真の善行」と「偽の善行」を峻別しないといけないのかも知れません。
 信仰生活をしていても、ときどき「自分の前でラッパを吹き鳴ら」す人に、残念ながら出会うことがあります。しかもそのラッパは目にも見えず、音も耳にも聞こえないように、知らない間に、巧妙に「善行」をアピールしているのです。今日の聖書よりも、たちが悪いかも知れません。
 イエスさまは、「右の手のすることを左の手に知らせ」るな、という非常にシンボリックというか、印象的な表現で、偽善を批判されます。「右手」と「左手」は確かに違う「手」ですので、Aの善行をBに知らせるな、ともとれる言葉です。しかしよくよく考えてみると、右手と左手は、体を通してつながっているので、何もしなければ、つまり自然にしていれば、右手の善行は左手に伝わってしまうのです。イエスさまは「知らせ」ないように、と言われます。
 昔は相撲が好きでよく見ていたのですが、勝利者インタビューでよく聞かれたのは「体が勝手に動いていた」という言葉でした。意識しなくても、自然に体が動く、まさに練習の賜物です。
 私たちが偽善をしなくなるとき、克服することができるとき、それは意識しなくても自然に善行をしてしまうようになったときなのかも知れません。相当な訓練が必要かも知れません。
 現代は、詐欺やカルトが横行している時代です。しかしもしかしたら、もっと大きな「だまし」、大偽善がこれから私たちを襲うかも知れません。そんなとき、真の善行はどんなものか、偽善ではないか、そのことを今日の聖書に記されているイエスさまの言葉から峻別するものでありたいと思います。そして最終的には、分からないとき、神さまに祈り、神さまから答を与えられて、偽善の方ではなく、善の方へ歩みを進めて行く者でありたいと思います。

2019年8月18日 聖霊降臨節第11主日礼拝 笹井健匡牧師

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