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「私たちの始まり」   創世記1章1~5節

 すべての物事、私たちの人生もそうですが、あらゆる存在には、「始まり」があります。以前だったら今日から9月、新しい「秋」という季節が始まるときでした。教会でもどことなく、少しだけ心がクリスマスに向いて行く、そんな感覚を感じるときです。
 創世記の天地創造の物語は、最初、地は混沌であり、闇であった、と記しています。「神の霊が水の面を【動いていた】。」と訳されていますが、この動詞はあまり使われていない言葉のようで、申命記32:11に「鷲が巣を揺り動かし」とありますが、フランシスコ会聖書研究所の聖書の訳の説明によれば、鷲がひな鳥を飛び立たせようとしている様子を表しているようです。そこで新しい出発を促す言葉としてここで使われ、そして神は「光あれ」と言われたのです。
 「光あれ」という言葉は、神が天地を創造され、そしてそれまで混沌とし、闇の状態にあった「地」に、命を与えられた、ということかも知れません。このことをヨハネの福音書では、その書き初めに応用しているのかも知れません。
 古代のユダヤ人たちにとって、世界はそのようにして神の言葉によって始まったのです。
 キリスト教は言うまでもなく、ユダヤ教を母体として始まりました。イエス・キリストを救い主と告白するとき、そのイエスこそが、光であり、新しい始まりである、と最初の弟子たちは信じていたに違いありません。天地万物を創造された神が、私たち人間の救いのためにイエスさまをこの世に遣わして下さった、そのイエスさまのことを一人でも多くの人に宣べ伝えて行こう、そのような信仰に燃えて最初期の伝道は為されたのかも知れません。
 「光あれ」という言葉は時代を貫いて、現代にも希望を与えてくれる言葉かも知れません。混沌、闇、むなしさ、そうしたすべての負の状態を切り開くように、神さまは今も私たちに「光あれ」と言われているのかもしれません。
 ここにいます私たちの信仰生活は、実に様々で、その始まりも多様です。ある人は、学校において、またある人は讃美歌を通して、またある人は、生まれる前から「始まり」があったかも知れません。しかし、共通して言えるのは、それまでの状態がたとえどんな状態であったとしても、神さまはそれぞれに「私たちの始まり」を備えていてくださったということです。そしてそこからスタートした私たちは、最後の最後までその神さまを信じて与えられた光の道を歩んで行きたいと思います。

2019年9月1日 聖霊降臨節第13主日礼拝 笹井健匡牧師

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