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「目を覚ます」   マルコによる福音書13章32~37節

 千葉県で台風による災害が起きてから、2週間近くになります。被災者の上に神さまの慰めと励ましをお祈りします。
 今回も「災害ゴミ」の多さに驚かされていますが、今一つ考えさせられたのは、倒木の異常な多さです。ある報道では、山が荒れ、中がスカスカになった木も多く倒れている状況が映し出されていました。森林国に住む者として、もっと山のことを大切にしなければならないと思わされました。
 今日の聖書は、13章の初めのところで、エルサレムの崩壊を、イエスさまが予言されるところからつながっています。「終末」についてあれこれ言うよりも、ここでイエスさまが言われている教えにこそ耳を傾けたいと思います。
 まず「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」ると言われています。私たち救われた者は、その喜びに生きるのと同時に、イエスさまから託された業を責任をもって全うしていくことが求められているように思います。いやいや、私には何もできません、という声がすぐ聞こえてきそうですが、そんなことはありません。たとえ体が不自由でも、心が病んでいても、希望を失いかけていても、必ず一人ひとりに割り当てられた仕事があるのです。だれかのために祈ること、最後にステファノは自分を殺している人々のために、とりなしの祈りをささげました。祈り、というかたちにこだわらなくても、思うだけでも、大きな業であり、思われた人の力になります。
 そしてイエスさまは、門番には目を覚ましているように、と言われるのです。しかしこの門番は最後に「すべての人」であることが分かります。イエスさまはすべての人に対して、目を覚ましているように言われているのです。
 「目を覚ます」とは文字通り、起きている、眠っていない、ということです。しかしこれは肉体的、生理的に、という意味だけではありません。周りに対して常に心の目を覚ましているように、と言われているように思います。
イエスさまが逮捕されるとき、弟子たちが眠ってしまったように、私たちは「弱さ」をもっている存在です。だからこそ、そんな私たちに対してイエスさまは「目を覚ます」ように繰り返し語りかけ、働きかけて下さるのだと思います。礼拝も、聖書を読み祈る時も、そのようなときだと思います。
 闇が世を覆い、人々が眠ってしまいそうになる、そんな時こそ、私たちは声を掛け合って、「目を覚ます」、そんな歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年9月22日 聖霊降臨節第16主日礼拝   笹井健匡牧師

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