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「新しい教え」 マルコによる福音書1章21~28節

 新しい年を迎え、みなさんはどのように過ごして来られたでしょうか。いろいろありますが、こうして今ここに礼拝をささげることができている、なんと幸せなことでしょう。
 新年を迎えると、毎年、少しは初心に帰るものです。そしてちょうど降誕節にあたりますので、どうしてもイエスさまの最初の頃の宣教に心が惹かれます。
 今日の聖書は、その中でも特に心をとらえられる個所の一つです。イエスさまが人前でなされた最初のいやしの場面ですが、そのこと自体よりも、22、27節の人々の驚きに注目してしまいます。自分自身が「会堂で語る」立場にあるからかも知れません。イエスさまは、「律法学者のようにではなく」語られました。そしてそれは、「権威ある新しい教え」でした。
 もちろん、一牧師にしか過ぎない私自身は、イエスさまのように語ることはできません。しかし、だからと言って「律法学者」のように語るのでは、それは神さまの御心ではないと思います。どう語ればいいのか、いつも悩ましい課題です。
 実際には神さまから示された聖書の個所から、聖霊に導かれて語る、というのが理想というか、きれいな答えですが、なかなかそうは行きません。それどころか、へたをすると、自分の思いばかり語ってしまっている、単なる人間の言葉、また律法学者の言葉になってしまっていることもしばしばだと思います。それでも、神さまを信じて、聖霊の導きを信じて語り続けるしかありません。
 そんな中で、一つ思うのは、その言葉が「古い言葉」「古い教え」になってしまっていないだろうか、ということです。繰り返しとりあげる聖書の個所であっても、そこに、そのときに与えられた新しい教えが少しでもあるのか、と思わされます。今日の聖書で示されたのは、イエスさまは汚れた霊を追い出す、というものすごい業をされたのですが、人々は、「教え」の方により関心を示し、そしてこれは今までにない、「新しい教え」だと言ったという点です。
 私たちもともすれば「いやし」「奇跡」等のものすごい業に心を奪われがちですが、一番大切なのはイエスさまの「新しい教え」であるということを覚えていたいと思います。そしてイエスさまに救われた者として、少しでもそのイエスさまの新しい教えに従って、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2020年1月19日 降誕節第4主日礼拝   笹井健匡牧師

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