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「信仰は、どこに」  ルカによる福音書8勝22~25節

説教題「信仰は、どこに」     聖書 ルカによる福音書8章22~25節

 私たちは、ふだん何気なく、自分はキリスト教の信者である、と思いながら生きているかも知れません。しかし、信仰というのは、なかなかむつかしいものです。ある、と思った次の瞬間には、不信仰になってしまっているのが、私たちの現状ではないかと思います。しかし、またそこから神さまの方に向き直って、信じる、そして、また、と信仰と不信仰を繰り返して生きているように思います。
 それは、信仰が、神さまから与えられたものであるからなのかも知れません。ときどき、いや、よく忘れるのです。しかしそんな私たちのことは、神さまは初めからよくご存知です。大切なのは、忘れても、また思い出し、神さまのところへ帰るということを、最後まで繰り返して生きて行くことだと思います。
 今日の聖書は、大変有名な個所です。特に児島教会では、受付に「絵」がかけられていますので、無意識にいつも心のどこかにあり、深く根を下ろしているかも知れません。私自身は、今は「奇跡」にとらわれなくなりました。気にならなくなった、ということです。それよりもなぜこんな経験を弟子たちはして、そしてイエスさまから厳しい言葉をいただいたのか、ということに心が惹かれます。
 「突風」「荒波」は、もしかしたら弟子たちの心理状態を表しているのかも知れません。イエスさまは基本的にはイスラエル中心に活動されましたが、時折、その周辺地域へ行かれています。今回はガリラヤ湖の向こう岸です。そこはつまり、異邦人の地なのです。当時イスラエルの民は異邦人と交際していませんでした。訪問もしていなかったのです。だから弟子たちは、これから先のことを考えて、不安になり、心が穏やかではありませんでした。そういう弟子たちに対してイエスさまは、信仰は、どこに、と問われたのです。
 神さまの業を成就するため、宣教活動をされていたイエスさま。そして、そのイエスさまから召し出され、弟子となり、共に行動していた、従っていた弟子たちでした。神を信じ、神に従う者には、おそれるものなど、何もない、とイエスさまは言われたかったのかも知れません。さらに、あなたたちの信仰は、本来、神さまから与えられたものであり、「どんなことがあっても」あなたたちの内にちゃんとある、と言われたかったのかも知れません。
 風前の灯火のようになることも多い私たちの信仰ですが、今日のイエスさまの言葉は、逆説的に私たちの中には信仰はあり続ける、と言って下さっているように私には思えます。もちろん感謝のみすべきことで、傲慢は無しですが。

2020年2月2日 降誕節第6主日礼拝      笹井健匡牧師

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