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「最も小さい者」 ルカによる福音書9章46節

 平良修牧師はNHKの番組の中で、「最も小さい者」について、マタイ福音書25章31節以下の有名なところを引用して語られました。私には、2千年前、この世で小さくされている人々、しいたげられている人々へのイエスさまの思いと、沖縄を思う平良さんの思いが重なって聞こえました。
 今日の聖書は、イエスさまが2回目の受難予告をされた後、弟子たちの間で巻き起こった議論を記しています。そしてその「だれがいちばん偉いか」への回答としてイエスさまは「最も小さい者」と言われたのです。
 私たちは多かれ少なかれ将来への夢や希望、目標をもって人生を歩んで来ました。自分のことを振り返っても、そこにはやはり、「偉くなりたい」という思いがあったように思います。たとえそれが純粋で、「きれい」な思いから出たものであったとしても、どこかに「いちばん」になりたいという思いがあったかも知れません。そしてそれは、生物学的な進化にとっては必要なものなのかも知れません。
 しかしイエスさまはここで、つまり自らの受難を予告された後で、反対に傲慢の方向に向かっている弟子たちに対して、対極的な存在である子どもを示され、いちばん偉い、と言われたのです。18章15節以下では「乳飲み子」が、さらに22章24節以下では「若い者」「仕える者」のようになれと言われました。マタイ福音書では「心を入れ替えて」「自分を低くして」子どものようになるべきことをあからさまに語っておられます。
 先ほど生物学的な進化にとって必要かも、と申し上げましたが、しかし言わばこの向上心のようなものは、行き過ぎると破滅への道をたどってしまいます。そうではなく、互いに「神」を恐れ、相手を受け入れ合うとき、そして最も小さい者が最も偉い者である、ということができるとき、人類は新しい世界を築くことができるのかも知れません。
 それは私たちクリスチャンにとっては、とりもなおさず救い主であるイエスさまの御心に生きる、ということになるのだと思います。
 複雑で、混迷を極める現代にあって、しかしその中でも私たちの目指すべき先を照らすイエスさまのみ言葉として「最も小さい者」を受け入れ、自らもそれを目指し、そうした人々で世界が満ち溢れるようになることを真剣に祈りながら信仰の道を共に歩んで行きたいと思います。

2020年2月16日 降誕節第8主日礼拝   笹井健匡牧師

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