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「受難の道」  イザヤ書42章1~4節

 受難節最初の日曜日を迎えました。今年は社会全体が受難節のようになっています。何とか4月12日(日)にはイースターを喜んで迎えたいと願います。
 今年は、イエスさまの受難の道を、イエスさまが読まれたであろう、イザヤ書の「主の僕」からみてみたいと思います。ざっと主要な部分を挙げると以下のようになります。
 主の僕の召命   42章1~9節
 主の僕の使命   49章1~9節
 主の僕の忍耐   50章4~11節
 主の僕の苦難と死 52章13節~53章12節
 私たちがよく知っているのは、最後の53章です。イエスさまの十字架の受難を思わされます。しかし、最後の11節12節には、最終的な勝利、主の僕自身の喜びが記されているように、私は思います。
 今日の聖書は、一見、受難とは、かけ離れた感じを受けます。神さまが選び、喜び迎える者、と記されています。しかし直前の41章27~29節をみると、神さまの目に適う者が一人もいない、ということが記されています。そして、今日の聖書の中でも、特に有名な、傷ついた葦を折らず、暗くなる灯心を消さないという言葉から、この選ばれた「主の僕」は、それまでの旧約の力強いリーダーたちとは一線を画しているように思われます。
 神さまは、地上を見渡しても、遣わすことができる存在を見つけることができなかったため、ついに、御子イエスをこの世に送る決断をされたのかも知れません。そしてそれは神さまご自身にとっても、喜びでもあるけれども、痛みでもあったのではないかと思わされます。
 実際にイエスさまが歩まれた道は、受難の道でした。そしてそれははじめから決められていた、あるいは想定されていた道だったのだろうと思います。
 私たちは、そのような深く優しい愛に満ち溢れたイエスさまに救われたのです。神さまはそのことによって、愛を示されました。
 イエスさまの受難の道が、神の愛から出ていることを、それほどまでに私たち人間を愛してくださっていることを忘れずに、このレントの時を歩んで行きたいと思います。

2020年3月1日 受難節第1主日礼拝      笹井健匡牧師

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