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「パウロの回心」 コリントへの信徒への手紙一15章1~11節

 今、私たちは復活節を歩んでいます。そしてそれはイースターから40日間となっています。しかし、今日の手紙を書いたパウロは、ペンテコステを経た後、さらに教会の誕生と成長、ステファノの殉教の後、復活の主と出会ったのです。つまり、復活の主は、昇天してずっと神の右に座し続けておられたわけではなく、必要に応じて、地上の私たち人間のところに来られる方なのです。
 マグダラのマリアはじめ、近しい存在だった弟子たちにとっては、実際に復活の主を「見た」ということが重要だったのかも知れません。しかし、イエスさまは「見ないのに信じる人は、幸いである」とトマスに言われました。
 パウロにしても、使徒言行録に3回、復活の主との出会い、つまり彼の回心が記されていますが、はっきりと「見た」というよりは、イエスさまの声を聞いた、という方が正確です。パウロ自身が自らの回心についてより詳しく書いているガラテヤの信徒への手紙1章16節でも「示して」という表現が使われています。
 つまり復活の主と出会い、それまでの生き方を180度変えて、回心するというのは、もっと大きく広く捉えるならば、今も生きて働いておられる主イエスを感じて、自らの救い主と信じ、新しい人となり、生きることだと思います。
 パウロは迫害者から伝道者へと変えられました。それは他の人には分からない大きな苦しみ、痛みを伴う人生であったかも知れません。しかし彼は、「神の恵みによって今日のわたしがある」と言います。前出のガラテヤの信徒への手紙の15節では、「母の胎内にあるときから選び分け、召し出してくださった」と記しているのです。自分は元迫害者かも知れないけれども、しかし、神はすべて聖なるご計画の中で、この私を用いられたとパウロは確信しています。
なかなかここまでにいたるのは、容易なことではありませんが、私たちもそれぞれの人生をしっかりと振り返り、ああ、あのことも、神の御手の内にあることだったのだなあ、と内省したいと思います。祈りは、決してお願い事をするだけではなく、今ここにいたった自分の人生を、神の前に申し上げ、そしてこれまでの導きに感謝するとともに、クリスチャンになって本当に良かったと思えるように、過去の信仰生活をしっかりと見つめ、そしてこれからどのように歩んで行くことが神さまのみ旨であるのかを知らされていくものだと思います。
巣ごもりの今だからこそ、私たちはパウロの回心を思いながら、自らの信仰の歩み、人生の歩みを今一度振り返るときとしたいと思います。

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝      笹井健匡牧師

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