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「天に帰る」   列王記下2章11~14節

 私たちはイエスさまの昇天後、そしてペンテコステ前の時を過ごしています。以前は、この時は、何となく不安で空白な感じを覚えながらも、熱心に聖書を読み、祈って過ごさなければ、と肩に力が入っていたように思います。それはイエスさまが地上におられない、という思いからでした。しかし今回エリヤが天に上って行くところを読んで、少し心が強められたような気がしました。
 エリヤは、「山上の変容」にも、モーセ(律法の代表)と共に登場する預言者の代表です。また生きたまま天に上って行ったことから、メシア到来の前触れとして出現する、と考えられていました。
 今日の聖書は、その場面ですが、別の角度から見ると、後継者であるエリシャへのバトンタッチの場面ということができます。エリヤは神さまの御用を終え、天に帰る時が来たのです。しかしエリシャは、エリヤから離れず、最後にエリヤの霊の二つの分をほしいと願います。そしてエリヤは天に上げられ、外套だけが落ちて来て、エリシャはそれをもらいます。そしてヨルダン川を渡って、西岸のエリコに行くのです。
 50人のエリコの預言者たちの言葉「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」という言葉に、今回私は、はっとさせられました。イエスさまの昇天を見送った弟子たちの上にも、同じように、イエスさまの霊がとどまっていたのではなかったのか、と思わされたからです。
 エリヤがエリシャを放っておかなかったように、イエスさまも弟子たちを決して放っておかれた訳ではなく、自らの霊を与えて、ペンテコステまでの日々を導かれたのではないか、と思わされました。
 私たちは、多かれ少なかれ、師と呼べる存在をもっているのではないかと思います。そしてその存在と別れを告げるとき、大きな悲しみと心にぽっかり穴が空いたような感覚を覚えるのではないでしょうか。しかし、その師の霊は、確かに私たちの上にとどまっている、一人ひとりの中で、生き続けているのではないかと思います。
 天に帰る、ということはこの世的には悲しいことですが、地上に残された者には、ちゃんと必要なものが備えられていることを信じ、そしていつかは自分自身も天に帰る存在であることを覚えながら、この地上での歩みを師に恥ずかしくないよう、すすめて行く者でありたいと思います。

2020年5月24日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

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