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「祈りの人」 マルコによる福音書1章35~39節

 今日は部落解放祈りの日です。今年は祈りに焦点を当てて考えてみたい、という思いが浮かんで来ました。
 言うまでもなく「祈り」はクリスチャンにとって、とても重要なものです。初代教会の様子が使徒言行録と手紙に記されていますが、その中にも、祈りによって様々な困難を乗り越えて行った様子や、当時の姉妹兄弟たちが大変よく祈っていた様子がうかがえます。
 「祈り」のルーツはやはりイエスさまにあるように思います。今日の聖書には朝早く、一人祈られるイエスさまの姿が記されています。日本人の私たちは、どうしても「願い事」が多くなる傾向があるように思います。しかし、本来は、神さまの言葉を聴くことに、また導きを得ることに中心があるように思います。つまり、一人の信仰者として神の前に出て、思っていることをすべからく申し上げ、そして神さまからの答えをいただく、行くべき道を示される、それが祈りの重要な要素であると私は思います。
 時々、「あの人は、ほんとに祈りの人だ」というようなことを聞きます。うらやましい限りですが、私自身はそういう意味では失格ですが、そういう「祈りの人」の存在に今までいつも助けられて来たように思います。だいぶ先でもいいので、いつかは「祈りの人」と言われるようになりたいものです。
 これは平島先生の受け売りになりますが、イエスさまは病の癒しで大忙しでした。もちろん、それも素晴らしい愛の業なのですが、このままペトロの家にいて、押しかけてくる人々を癒し続けることが神さまのみ旨なのかどうか、一人祈って神さまに聴いておられたのではないかと思います。そして、与えられた結論が、他の町や村へ行く、そこで宣教する、というものでした。
 バプテスマのヨハネはご存知のように、荒野にとどまり、来る人々に悔い改めの洗礼を授けました。イエスさまもペトロの家にとどまり、来る人々を癒してあげたいという思いが、つまり愛があられたのではないかとも思わされます。
 しかし、「祈りの人」であるイエスさまは、神さまと語らい、より厳しい道、巡回して宣教して行く道を選ばれたのです。神の僕としての、また私たちと同じ生身の人間としての在り方を、ここで示して下さっているように思います。
 この世的な計算や、賞賛、常識を超えて、救いの道を開いてくださったイエスさまに従って、私たちも祈りを熱くし、必ず祈りは聞かれることを信じて信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。


          2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

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