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「もはやわたしではなく」 ガラテヤの信徒への手紙2章19~21節

 イエスさまが教えてくださった最も重要な掟の中に「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31、マタイ22:39)というものがあります。「隣人を愛しなさい。」だけではなく「自分のように」という言葉があります。自分で自分を愛することもここでは言われています。キルケゴールは「自己の二重性」ということを言っており、「私」の中には2人の「私」がいるのだ、ということを言っていますが、本当はもう少したくさんの「私」がおり、あれやこれやとそれぞれが主張し、最後に一番重要な私が決断をなして、語ったり、行動したりしているのではないかと思います。
 パウロは「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」と言いました。イエスさまを信じる者は、いろいろな種類の自分がいる中にイエスさまを受け入れること、心の中でイエスさまの声を聴き、それを行動に移すこと、それが心のうちにキリストが生きているのであろうと思います。時にはイエスさまと対立しながらも、最終的にイエスさまの言葉に従うということを成せるようになるのです。
 「律法」ではなく、「イエスさまへの信仰」によって、私たちは生きるのです。旧約聖書には嫌というほど「律法」について書かれていますが、しかし、旧約聖書の中には私たちの指標となる言葉もあります。それは「神は愛」だからです。人間は何度でも罪を犯し、悪へ走ってしまうことが、特に預言書には
記されていますが、そんなどうしようもない人間たちを愛するが故に、神さまは、イエスさまをこの世へ送ってくださったのです。そのイエスさまは、外にいる存在ではなく、内にいる存在なのです。私の中に何人かの私の中の最高峰にイエスさまはいてくださり、時にはほめてくださり、時にはたしなめてくださるのです。
 「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とパウロは言いました。ここにいる私たち一人ひとりも、「もはやわたしではなく」キリストが自分の中にいてくださる、内在するキリストと共に歩いてゆくためにも、聖書を読むということを大切にし、聖書の言葉によって、イエスさまが私たちに行く道を示してくださる、ということを信じる者でありたい、また、イエスを内に宿すなどできるはずはないという思いを聖書の言葉が打破していくことを信じて、「もはやわたしではない」自分、「イエスさま中心の自分」となり、自分にこだわらず、イエスさまのみにこだわって生きていく者でありたいと思います。

               2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日 平島禎子牧師

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