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「塩と光」 マタイによる福音書5章13~16節

 説教題を考えるのは、楽しい反面、難しいことも多々あります。今日の聖書で言うと、見出しにあります「地の塩、世の光」が一番いいと、まず思うわけですが、何とか一ひねり等といろいろ考えてしまうのです。今回は思い切って縮めてみよう、そうだ「塩と光」でいい、と思いました。そして説教のための準備をしていると、ある専門書には「地の塩、世の光」は単に「塩と光」とも言う、とあって、何ともなあと複雑な気持ちになりました。
 旧約聖書の中心にある契約、つまり十戒をはじめとする律法ですが、この契約を「塩の契約」(民数記18:19、歴代誌下13:5)と表現しています。これは腐ることのない永遠の契約、という意味だと思います。おそらく捧げ物に塩をかける(レビ記2:13)ことから転じた言葉だと思われます。イエスさまはそのことをふまえて地の塩と言われたのだと思います。
 当時の塩は、死海の塩であり、現代のような精製技術がありませんので、時間の経過とともにその効き目が失われやすかったようです。だからこそ気をつけて、塩の効き目が持続するように、つまりこの世を腐らせないように地の塩としての役割を果たすように言われているのだと思います。
 光の方は、創世記冒頭の「光あれ」から、多くの書で、特にヨブ記や詩編で記されています。例えば詩編34篇6節では、信仰者は光と輝くことが歌われています。そして光を隠さないで、公にすることが勧められています。これはおそらく、当時荒れ野で隠遁生活をしていた諸集団との違いを強調されているのではないかと思います。洗礼者ヨハネは荒れ野にとどまりましたが、イエスさまは町々村々を巡回して宣教されました。
 立派な行い、と言われると、すぐ否定したくなりますが、自分の中にある光を人々に見せる、くらいに思えばいいのかも知れません。この光は、もともと真の光であるイエスさまからいただいたものです。私たちはイエスさまからいただいた光を受けて、心を磨いて、少しでもその光が多く反射するように、そして人々に届くように祈りながら歩めばいいのです。
 先が見えない、混迷を深めている時代だからこそ、イエスさまを信じて生きる者として、「塩と光」を大切に、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

              2021年1月24日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

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