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「求めて受ける」 マタイによる福音書7章7~12節

 クリスチャンの信仰生活の大きな柱は、言うまでもなく礼拝です。信仰生活が長くなって来ると、礼拝においてみ言葉をいただき、それを糧にして一週間を生きる、というのが生活のリズムとしてしみついて来ます。それはそれで良いことであり、大切なことでもあるのですが、「いただいて」→「生きる」ということだけになってしまうと、それは言わば受け身の信仰ということになるのではないでしょうか。
 もうひとつの大切なものに、「祈り」があります。礼拝が共同体としての教会の中心であるとするならば、「聖書を読み、祈ること」は、信仰者個人として最も大切なことなのかも知れません。礼拝が教会を成長させ、祈りは信仰者個人を成長させます。欠かすことのできない、二つの大切な両輪です。
 さらに祈りにも、ざっくり言って二つのものがあるように思います。一つは、神さまへの感謝です。これは礼拝と同じく受け身のものかも知れません。もう一つは、願いです。これは自分の方から神さまにお願いするわけで、その意味で受け身ではなく、能動的、主体的な信仰です。
 神さまは一人ひとりに必要なことをよくよくご存知であり、その時に応じて必要な物を下さいます。ですから基本的にはそのことを感謝して生きるのが、私たち信仰者の在り方だと思います。しかし、時に私たちは心からの願いを神さまに申し上げるのも大切なのかも知れません。必要十分なものはすでにいつもいただいているわけですが、その上に自らのオリジナルな願い、思いを持つのが私たち人間だからです。自由意志と言ってもいいかも知れません。
 今日の聖書は大変有名な個所です。自らの内にある心からの願いを神さまに求めることの大切さを改めて思わされます。この、私たちと神さまの関係は、赤ちゃんと親の関係に似ているかも知れません。ふだん満たされているとき、赤ちゃんは健やかですが、何かあると、泣くことで知らせ、それが聞き届けられると笑顔になるのです。決してわがままではありません。愛情のコミュニケーションです。そして自分がしてほしいことは、他の人も同じであることを知り、人にもして行く、隣人愛が大切であり、旧約聖書が告げていることだとマタイは記しています。イエスさまは律法と預言書を完成するために来られたからです。
 私たちも究極的には、具体的な願いの根底にある、愛を求めて愛を受けて、生きているのかも知れません。神さまを愛し、互いに愛し合って信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。
               2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

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