• 記事検索

RSS

「土の器」 コリントの信徒への手紙二4章7~15節

 今日が降誕節最後の主日で、17日(水)、灰の水曜日から受難節、レントに入ります。
 今日の聖書の後半、10節以下は、イエスさまの受難と復活について、パウロ自身の実体験から来る、強い信仰を感じる個所です。迫害者であったパウロは、まさに闇(6節)であり、あのダマスコ途上で復活の主の光を受けて、自らの内から光が輝き出しました。それは言わば土の器から宝である光があふれ出すようなものだったのではないかと思います。
 土の器という表現の背景には、創世記2章の影響があるように思います。神さまが土の塵で人を形づくり、命の息を吹き入れられたことを、土の器に宝を入れていると表現しているのだと思います。さらに闇の世に真の光であるイエスさまが来られたことも、暗に言っているように思います。闇(迫害者)のような存在であった自分が、イエスさまの光を受けて、光の存在へと変えられた体験が軸になっていると思います。
 8節9節の言葉は、コロナ禍にある私たちを大いに励ましてくれるのではないでしょうか。よく言われるように、たとえどんなに行き詰った状況であろうとも、上(天)だけは常に開いている、そこにこそ私たちの救いはあるということを改めて思わされます。
 この春で、牧師になって30年になりますが、何度も何度も行き詰まりを経験する度に、あらためて土の器で良かったと思わされます。若い頃は、宝を入れるのに自分はふさわしくないとか、安っぽい土の器であることを嘆いたりもしましたが、この年になると、土の器で良かったと心から思えます。もし、立派な器だったら、自分自身を誇ったり、また見失っていたりしたかも知れません。宝のすばらしさではなく、それを持っているということで、勘違いして自分が宝のように思ってしまっていたかも知れません。自分がボロボロで安っぽい器だからこそ、その破れから宝石のような、いやそれ以上のイエスさまの光が外へとあふれ出す、それでいいのだ、それがいいのだと今は思います。
 水曜日から始まるレントの日々を、イエスさまの受難を覚えながら、同時に自らが土の器であることを再確認しながら、遠くにイースターの希望の光を見つめつつ、一歩一歩、歩んで行きたいと思います。

               2021年2月14日 降誕節第8主日礼拝 笹井健匡牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):