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「イエスの問」 マルコによる福音書8章27~30節

 幼い頃、若い頃は、周囲の人たちから、「好きなものは?」「欲しいものは?」「大きくなったら何になりたい?」等、いろいろと問われることが多かったように思います。しかし大人になるにつれ、あまり他の人から問われることがなくなって来たように思います。人から問われて、あらためて自分自身のことがよく分かったり、自分の核、軸がしっかりと定まっていくこともあると思います。
 聖書は、そんな問いを投げかけてくれる、そういう面を持っています。特に福音書は、イエスさまから直接問われているような感じを受けることも多いと思います。今日の聖書はその中でも特に心に迫って来る個所だと思います。
 「わたしを何者だと言うのか」というイエスさまの問いには、伏線があります。それは8章1節以下の「4千人の給食」の後、17節以下で、「まだ、分からないのか。悟らないのか。」と言われ、弟子たちに給食の奇跡を思い起こさせられ、21節で「まだ悟らないのか」と言われたところです。
 悪霊を追い出し、病やしょうがいをいやされただけでもすごいのですが、風や波さえも従わせ、湖の上を歩かれ、5千人、4千人の給食をされた、これでもまだイエスのことが分からない、それが弟子たちの状況でした。
 おそらくイエスさまは、この後の受難の道を強く意識されるようになっていたのではないかと思います。しかし弟子たちの理解は、まだほど遠いものだったのだと思います。人々の評判を問われた後、おそらく弟子たちを見つめて「それでは、あなたがたは…」と問われたのです。原文では「あなたがた」が一番最初に置かれる、強調構文になっています。ずっと一緒に歩んで来て、一番イエスさまのことを分かっているはずのあなたたちはわたしを何者だと思っているのか、と問われました。ペトロの答えは、すばらしい信仰告白だと言われているものです。しかし、続く聖書の個所を見ると、疑問がわきます。実際のイエスさまの思いは、やっとそこまで来たか、という感じではなかったかと思います。だから沈黙を命じられたのです。そしてその後メシアはメシアでも、多くの人たちが思っているようなメシアではなく、受難のメシアであることを語られたのです。
 その後を知っている私たちは、受難を含めて、イエスさまこそメシアです、と信仰告白をすることができます。そしてレントの歩みを歩み終えたその先にはイースターの喜びの日が待っています。希望を持って、一歩一歩、歩みをすすめて行きましょう。 

             2021年3月7日 受難節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

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