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「共なるイエス」 マタイによる福音書28章16~20節

 イースターおめでとうございます!コロナ禍にあっても、こうして共に主の復活を喜び祝えることを心から神さまに感謝します。
 復活に関して豊かな情報を提供してくれるのはルカ福音書とヨハネ福音書です。マルコとマタイはほんの少ししか情報を提供してくれません。マタイは大筋でマルコを踏襲しながら、そこに独自の情報を挿入しています。一つは番兵に関すること、そしてもう一つが今日の聖書、ガリラヤの山における派遣命令です。
 ユダを除く11人の弟子たちは、二人のマリアから復活の主の言葉を聴き、生前に聞いていたガリラヤの山に登ります。そこで初めて復活の主に遭うことができたのですが、喜びや驚きの詳しい様子は一切記されず、ひれ伏したことと、疑う者もいたことだけが記されます。
 大学時代に新約聖書を教えていただいた教授は、この「疑う者」のところは、11人の中の数人が疑ったのではなく、11人すべてがひれ伏して礼拝しながらも疑った、ととるべきと書いておられます(新共同訳新約聖書注解Ⅰ)。つまりみんな主イエスの復活を望みながらも、どこかで疑っていた、ということです。
もしかしたら、イエスを見捨てて逃げてしまったことを後ろめたく思っていたかも知れません。あるいは生前のイエスさまから復活について聴いていたけれど、本当にそのことが実現するとは思ってもいなかったのかも知れません。いずれにせよ、復活ということについて、よく理解できていなかったのではないかと思います。
 そんな弟子たちにお構いなく、イエスさまは18節以下、最後の締めの言葉を授けられます。復活された主イエスは、すべてに完全勝利され、いっさいの事柄はイエスさまにゆだねられたことを言われます。そして、だからこそ弟子たちにすべての人々のところへ行き、イエスさまのことを宣べ伝え、洗礼を授け、弟子にするように言われました。そして最後に復活の主は、どんなときも最後の最後まで共にいてくださることを宣言されました。誕生物語でのインマヌエル預言がここに成就したのです。
 この時の弟子たちと同じように、私たちも復活についてはよく分からないという思いを持ちますが、長い信仰生活の中で、復活の主が共にいてくださることを感じて、信じています。復活された主イエスは、どんなときも共にいてくださることを信じてこれからも信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

                2021年4月4日 イースター礼拝 笹井健匡牧師

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