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「今を生きる」 マタイによる福音書6章28~34節

説教題「今を生きる」 マタイによる福音書6章28~34節


今日は花の日(子どもの日)です。美しい花を見ていると、言葉はいらない、沈黙を守っている花の方が雄弁に語っている、そんな思いを持ちます。花鳥風月と言いますが、やっと私も花のありがたさに気が付いたように思います。

今日の聖書は、もちろん栄華を極めたソロモン以上に美しく着飾っている花たちのことに焦点をあてて、取り上げました。しかしイエスさまが一番言われたかったのは、はかない存在たちが懸命に今を生きている、だからあなたたちも、今を精一杯生きればいい、大丈夫、神さまを信じなさい、ということだったのではないかと思います。

31節から34節までが結論になっていますが、その中で、対象となる人々が変化していることを感じます。はじめ、「何を」という言葉には、いろいろある中でどれを選ぶのか、という現代人にも、また今の私たちにも通じる、“選択”に心を奪われている、比較的余裕のある暮らしをしている人々が想定されます。しかし最後には「苦労」という言葉から分かるように、食べる物、着る物に困っている人々が想定されています。それは取りも直さず、イエスさまを取り囲んでいた大勢の人々の中に存在していた、ある一定数の人々だったに違いありません。イエスさまは一般的な教え、一般論を教えられた、その中で、目の前にいる大変厳しい状況下の人々を想い、最後の言葉を言われたのだと思います。明日ではなく、今日を生きれば、それだけで十分すばらしい、という意味を込めて。

私たちは、“はじめ”の人々に該当しますが、しかしそれでも、今のコロナ禍の困難な状況を思えば、やはりイエスさまの最後の言葉は大変心に刺さります。そして、たとえ余裕のある暮らしをしていたとしても、究極的には、今に集中して、今この瞬間を、悔いのないように、花たちに負けないように、命を輝かせて生きることは大切だと思います。この先のことにどれだけ心を使ったとしても、所詮、骨折り損のくたびれ儲け、に終わってしまいます。それよりは、すべてをすべ治めたもう神さまに、必要なことはすべてご存知の神さまに信頼して、今を懸命に生きるほうが、幸せなのではないでしょうか。

明日以降のことは、自分にできる人事を尽くしたなら、後は、全能の神さまにゆだねて、与えられている今を、精一杯花を咲かせるように、輝いて生きる者で

ありたいと思います。その愛の輝きが世界を照らして、自分も、他の人々も幸せにして行く、そう信じて、祈りながら歩みをすすめて行きたいと思います。


2021年6月13日 花の日(聖霊降臨節第4主日)礼拝 笹井健匡牧師


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