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「生き返る」 エゼキエル書37章1~6節

私たちの聖書の多くの部分を占めるのは、旧約聖書です。そしてそれはユダヤ人という一民族の宗教の記録です。ほんとにつくづく不思議な民族であると思います。しかしどこか親近感を覚えるのも事実です。近い将来、遺伝子の研究等がもっと進んで、いろいろなことが明らかになるかも知れません。

ユダヤ民族が存続した理由はいろいろありますが、やはり律法が大きい要因ではないかと思います。エゼキエルの関係で言えば、紀元前597年の、第1回バビロン捕囚中、比較的いろいろな自由が許されましたが、それでもやはり宗教的祭儀はできませんでした。そういう状況の中、安息日と割礼が、民族の信仰とアイデンティティを保持したのだと思われます。

バビロンで捕囚生活を送る中、紀元前586年、エルサレムが陥落し、本格的なバビロン捕囚が行われます。このことを知ったエゼキエルはじめ捕囚の民は、絶望のドン底に突き落とされたのではないでしょうか。まさに今日の聖書にある、「枯れた骨」状態です。

人間的には、さすがにもう復活できない、と思われる状態になっても、しかし神の意志であるならば、もう一度生き返ることができるのです。

教会に連なっていると、いろいろな不思議な話を聞きます。まさに「生き返る」というような体験も聞きます。一番印象に残っているのは、九州の教会の、男性信徒の方の話です。子どもの頃、海水浴でおぼれそうになり、ああ、自分はもう死ぬのかな、と思われたそうですが、そのとき、だれかわからない、ある人が、自分の体を下から上に持ち上げてくれ、そして背中を押して、岸まで運んでくれたそうです。気が付くとだれもいなかったそうです。

常識的に考えると、絶望し、あきらめてしまう場面で、しかし想像を絶する力により、生き返る、ということがあります。南北に分裂し、先に滅んだ北王国に続いて南王国もここまでか、ついに滅ぶのか、というこの瀬戸際で、神さまの力が働いて、ユダヤ民族は生き返り、そして半世紀を経て、紀元前539年、故郷に帰ることができたのです。

状況が悪化してくると、どうしても“近く”しか見えず、神さまを忘れがちですが、人智を越えた神さまの視点からすれば、いや、まだまだ大丈夫、生き返ることができる、ということがあるのかも知れません。私たちをこよなく愛し、守り導いて下さっている神さまにこそ信頼し、明日を信じて生きて行く者でありたいと思います。


2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝 笹井健匡牧師


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