• 記事検索

RSS

「命の水」 民数記20章9~13節

 すったもんだの末、何はともあれオリンピックが始まりました。そして聖火がともされました。あの火が、文字通り、聖なる火となるように祈ります。

 今日の聖書は、有名な”メリバの水”のところです。この経験はイスラエルの民の心に深く刻まれました。飲み水は、私たち現代の日本人の想像をはるかに越える、貴重な大切なものでした。

 水を求める民に対して、神さまはモーセとアロンに、岩に命じて水を出すように言われました。しかしモーセは岩を2度打って水を出しました。神さまはあくまで言葉で命じて、水を出すように言われたのです。しかしモーセは、岩を打つという行為によって、しかも2度も打つという行為によって水を出しました。

10節の言葉にはモーセとアロンの心境がよく表れています。二人は民を反逆する者と呼び、「なんでおまえたちのような者のために、水を出さなければいけないのか、やってられねえ。」と言わんばかりの悪しき思いを持って、水を出しました。

二人の行為は、神への信仰から出た美しいものではなく、人間的な弱さから出た醜いものでした。そしてそれは結果的に、神さまの栄光を損なうものでしかなかったのです。これによって、二人は約束の地に入ることができなくなりました。

しかし神さまは、そんな人間同士の破れ合戦を通しても勝利されました。13節にあるように、この事件は、メリバ(争い)の水として後世まで語り継がれ、結果的に神さまが聖なる存在であることを雄弁に物語っているのです。

イエスさまの時代にも、この話はよく知られていたと思います。ヨハネ4章でサマリアの女性に対して、「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。…永遠の命に至る水がわき出る。」(14節)と言われました。

わたしたちは、イエスさまから命の水を与えられ、生かされていると言えるかも知れません。苦しみの中にある時、神さまに文句を言い、争いを挑みたくなる時、旧約の民と違って、イエスさまを仰ぎ見ることによって、魂の救いを得ることができます。

命の水を与えてくださる主イエスをしっかりと見つめて、心の渇きに打ち勝つ歩みをなしていく者でありたいと思います。

 

2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝 笹井健匡牧師


コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):