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「剣や棒を持って」 マルコによる14章43~50節

 8月を迎えました。今年は特に、コロナ禍、オリンピック、猛暑等いろいろな方面から平和を考えさせられます。

 イエスさまは神の力に満ち溢れた方でしたが、その力をもって武装蜂起するという道を歩まれませんでした。イエスさまが歩まれたのは、十字架の道でした。それはそれが、それこそが、真の平和の道だったからです。

 私たちの浅はかな「旧約聖書の読み」では、神の力をもって正義が悪をやっつけるのがいい、と思ってしまいます。しかしイエスさまの深い知恵と信仰、何よりも愛からすれば、「やっつける」では何も解決しないのです。真の平和の道は、神が愛であることを、ご自身の尊い犠牲をもって示すことでしか、実現できないのをよく知っておられました。

 今日の聖書は、イエスさまが、裏切られ、逮捕される場面です。ユダの接吻による裏切り、イエスの側にいた「だれか」の剣による応戦に注意が向きます。しかし48・49節のイエスさまの言葉に注目すると、それまで神殿で教えていた、言わば「教師」のイエスさまには手をかけず、夜の闇に紛れて、まるで強盗を捕まえるように、剣や棒を持ってやってきたことにこそ、驚かされます。

そうです。ユダヤ当局はイエスさまを強盗扱いし、さらに騒乱の首謀者として十字架刑に処したのです。

 しかしイエスさまの実像は、真に愛と平和の人でした。それは後の弟子たちの姿を見れば明らかです。この逮捕の時、おそらくイエスさまの側の人々も、ある程度、最低限の護身用の武装をしていたかも知れません。しかし、十字架と復活、聖霊降臨を経た弟子たちは一切の武装をせず、ただ信仰の盾等の神の武具(エフェソ6・11以下)をもって、悪に負けず、福音を宣べ伝えて行ったのです。

現代においては、剣や棒は、ものすごく発展して、核兵器、生物化学兵器等に「進化」しました。しかしどのような変化があろうとも、私たちはイエスさまから教えられた愛と平和を身にまとい、イエスさまに従って、平和を希求していきたいと思います。いつの日か、真の平和が実現することを信じて…。

 

2021年8月1日 平和聖日(聖霊降臨節第11主日)礼拝 笹井健匡牧師


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