平和と一口に言っても、人によっていろいろなイメージする姿があるように思います。開国以降、戦争への道を歩み続けた歴史を持つ私たちは、戦争がないことが平和だとシンプルに思います。しかしそこで生きている人々が、真に幸せを享受していないとすれば、それは平和だと言えないかも知れません。
今日の聖書は、いわゆる「ハンナの祈り」の中間部分です。ここでは、この世の在り方の逆転が歌われているように思います。
4・5節ではこの世的な強者と弱者の立場の逆転が記されています。いずれも相反する立場の、大逆転が起こっています。
6・7節では、生死も貧富も、神のみ手の内にあり、それらを神は全く自由に、かつ完全に実行されることが記されます。
ダイナミックな変化、立場の逆転が強調されていますが、最終的には、8節にあるような弱者、貧者の高挙が実現すると歌い上げているように思います。弱者・貧者が置かれている厳しい状況を、塵芥と表現します。非常にマイナスで、絶望的な状況に置かれている、そうした人々が、神さまによって、高貴な人々と共に栄光の座に着くというのです。
この祈りは、もっと以前に、イスラエルの民の中で、歌い継がれていたのではないかと思います。そしてそれは、真の平和、主の平和について歌っていたのではないかと私は思います。つまりハンナという個人の歌となる前に、すでに主なる神、ヤハウェを信じる人々によって、伝承されていたのだと思います。
主の平和、それは争いがないというだけではなく、すべての人々が愛と感謝に満ち、喜びの祈りの歌が響き渡る世界、だれも不足する者、不満な者、不幸な者がいない、神の正義と公平にもとづく、光あふれる世界です。
厳しいコロナ禍を生きる私たちですが、信仰をもって、主の平和、主が必ずや実現して下さる平和を祈り求めて、共に歩みを続けて行く者でありたいと思います。
2021年8月8日 聖霊降臨節第12主日礼拝 笹井健匡牧師