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「人間の尊厳」 マルコによる福音書5章25~34節

 ひとくちに平和と言っても、その状態は種々様々です。戦争がないのはもちろんですが、その共同体、国家を構成する人々が、真に自由に、幸せに生きているかどうかも重要な指標です。一人ひとりの存在が大切にされ、すべての人が人間として尊重されている状態、つまり人間の尊厳が守られている状態が真の平和と言える姿だと思います。

 イエスさまの時代は、今から2千年も前の時代です。時には人間がまるで虫けらのように扱われることもありました。今日で言う、「人権」という概念はありませんでした。しかし、そんな時代にあって、イエスさまの人間に対する見方には驚かされることが多いです。

今日の聖書もその一つです。主人公の女性、弟子たち、そしてイエスさまの在り方には大変大きなコントラストがあります。レビ記15章19節以下には、女性の生理に関する規定があり、出血を「汚れ」とする考え方が記されています。

 つまり、この女性は、汚れた存在とされ、それゆえ、後ろから、体ではなく服に触れたのです。12年間の苦しみと信仰的希望が交差する行為でした。大勢の群衆が押し迫っていました。まるでおしくらまんじゅうです。弟子たちの言い分も分かります。はっきりとは記されていませんが、弟子たちとすれば、触れた人を探すイエスさまの行為は、無駄な行為、もっと言えば愚かな行為でしかありません。それよりも社会的地位の有る、会堂長の娘を救うため、急いで行かなければならないと思ったでしょう。

 しかしイエスさまは探し続けられます。叱られると思って、カミングアウトした女性でしたが、イエスさまの反応は真逆でした。病気が治っただけではだめで、この厳しい状況を生き抜いてきた、サバイバーの女性が、自尊心を取り戻し、名誉が回復され、人間の尊厳を奪い返すことが重要でした。だからイエスさまはしつこく、あきらめずに探し続けられたのです。そしてかけられた言葉が、

”あなたの信仰があなたを救った。”でした。イエスさまの力が彼女を救ったのですが、イエスさまはあえて「あなた」が「あなた」を救った、と言われました。

この言葉により、この女性はこの後、自尊心をもって、安心して元気に暮らすことができたのだと思います。

 人間の尊厳を大切にされ、人を真に生かされるイエスさまの姿がここに明瞭に表されていると思います。私たちもそのイエスさまに従い、自分を高め、他者を高める歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝 笹井健匡牧師


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