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「 希望 」 ローマの信徒への手紙5章1~5節

 神との平和に生きる者は、神の栄光にあずかる「希望」を誇る者であるというのです。クリスチャンの抱く「希望」とは、神の栄光にあずかること、神の国に招き入れられることを意味しているのであろうと思います。何のいさおしもない者を神さまはイエスさまを通して救い、導き、やがては神の国へと招き入れてくださるのです。しかし、そのことで傲慢になるのは間違いです。パウロは人間の誇りは取り除かれた(ローマ3・27)と言っています。私たちは私の誇りをすべて取り除かれ、神の国へと入れられる「希望」を誇る者となったのです。

そしてパウロは「苦難をも誇りとする」と言っています。自分の苦しみを誇るというのです。苦難というものは本当に嫌なものです。できるなら避けて通りたいものです。しかし、そのような「苦難」を誇りとし、「苦難」は「忍耐」を、「忍耐」は「練達」を、「練達」は「希望」を生むのだというのです。クリスチャンはこの世の外ではなく、この世のただ中で生きる者です。この世には、私たちを苦しめ、悩ませ、圧迫するものが満ちているのです。しかし、そのような「苦難」から逃げるのではなく、「忍耐」をもって対することが大事なのであろうと思います。「苦難」の中にあっても神を信じ、神により頼んでいくということをなし、忍耐強く生きることによって、人は「練達」し、前の自分より強くなった自分となり、「希望」を持ち、誇ることができるようになるのです。

5節には、「希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と記されています。「愛が注がれる」ということほど幸せなことはありません。それだからこそ、私たちの持つ「希望」は、私たちを欺かないのです。「希望」を持って生きていく者の幸いがここに記されているのではないかと思います。

クリスチャンにとっての「希望」とは神の国に入れられることです。しかし、ルカによる福音書17章20節後半から21節において、イエスさまは、「神の国は、見える形では来ない。… 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われています。イエスさまのいわれる「あなたがたの間にある神の国」に入れられることもまた「希望」です。教会は神の国の先取りであるとも言えるかもしれません。「神の国」の先取りである「教会」が成長していくということもまた、大切な「希望」ではないでしょうか。私たちの小さな群れが、「神の国」の先取りとして成長していく「希望」を持つ者でありたいと思います。そして、希望は決して欺かないということを信じ、忍耐を持って教会生活をなしていく者でありたいと思います。

 

 

2021年10月24日 降誕前第9主日礼拝 平島禎子牧師


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